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もうかれこれ、7年くらいにはなると思うのだが、毎週1回か2回、テント村まで自転車でパンを配りにやってくるおじさんがいる。黒縁眼鏡の中高年のおじさんが、かごにパンをつめた古めかしい自転車をこいで、寒い日も暑い日もやってくる。決まった人に、一袋に5、6個のパン入ったのを渡していく。たまに中には野菜ジュースやバナナ1本も入っている。
以前は、ぼくも貰っていたのだが、最近は数が不足しているのか、いただけなくなった。 しかし、近くのテントに住んでいる人から、「固い」パンだけをもらっている。その人がいう固いパンとは、フランスパンの類である。その人は、歯のせいか甘いパンが好きなせいなのか、毎回ぼくに固いパンをくれるので、今でもおじさんから間接的にパンをもらっていることになる。 そのパンは、賞味期限が切れているというか、いささか古いパンであるのだが、少し水をいれたフライパンで焼くとふんわり感が甦っておいしい。時に、海草か海苔みたいのものが混ぜてあったりと、なかなか独特なパンが見受けられる。 一体、このパンたちはどこからやってくるのか。 それは、長年の謎だった。 配りにくるおじさんは、どちらかといえば口数の少なそうな方で、必ず、パンを渡した後に「がんばってください」と言う。はい、と返事するものの、がんばります、とも言えず、ありがとうございます、と言う。その程度の会話しかしたことがぼくはなかった。 このおじさんがパン屋さんなのか。どうやら、そうではなく店からもらったパンを配っているのだ、という話を聞いたこともある。どこかの社長なのだ、という噂も聞いたことがある。しかし、テント村の噂は当てにならない。 今日、1つの謎が解けた。 少し離れた商店街を自転車で走っている時に、●●ベーカリーと看板が見えた。そして、道のわきに、なんともしゃれたいい感じのパン屋があった。あまり通らない道とはいえ、パン屋好きなぼくが、なんで今まで気がつかなかったのだろう。 リッチな人向けの値段の張るパン屋と町のパン屋の中間くらいの白い外装のきれいな店だ。ぼくは、急ぎの用事があったにも関わらず、思わず、自転車をとめ、ふらふらと店の中に引き寄せられてしまった。 ガラスケースの中や、バスケットの中にきれいにパンが並べられている。初めての店なはずなのに、見たことがある。 海草を入れたフランスパンもある。これだ。この店だ。 レジに立っている人とパンを焼いている人は、まだ若い。 ああ、いつもただで貰っているのに、、というケチくさい考えが頭を一瞬よぎったが、甘いパンを1つ購入した。 ちょっと考えて、何も言わなかった。 店を出て、こんなに素敵なパン屋さんのパンを食べていたのか、とイメージに弱いところのあるぼくは、なんだか、いつものパンの評価が上がってしまった。 実際、甘いパンはおいしかった。 しかし、おじさんが誰であるのかは依然として分からない。 それでも、パンのおじさんがくるのが待ち遠しい。 # by isourou1 | 2012-02-21 21:48
月に一回くらいのペースでFさんから電話がかかってくる。
「あのさぁ、小川くんさぁ、ちょっとあれなんだけど。」 と大変歯切れは悪い。しかし、瞬時に用件は分かる。 「ああ、いいよ。いつ行けばいいの?」 Fさんは、元テント村の住人で、テント村からアパートに移って6年くらいになる。 移った当初は、よくテント村(というかエノアール)に遊びにきたのだが、ここ3年くらいは滅多にこなくなった。 一つの理由としては、Fさんは複数の病気を患っていて、病院通いが忙しく、かつまた、だんだん長く歩くこともきつくなってきたためだ。Fさんは、思わず叩きたくなるほどの太鼓腹で、それが足腰の負担になっているのは明らかだ。 昨年の終わり頃、そのFさんが、久しぶりに電話をしてきて、とにかく来てくれ、電話では用件が言えない、というので何事かと思ってアパートに駆けつけた。 それから、定期的に電話がかかってくるのだが、その用件というのが、、、、、 爪切り 足指の爪切りである。腹がつかえて手が届かないというのだ。そういう悩みもあるだな、と痩身であるぼくは変に感心してしまった。それが、なぜ電話で口に出せないほどのことなのか、その感情の在り方はよく分からなかったのだが、、、。でも、とにかく、病院に行った折に、誰かに切てもらうなんてことも出来ないのだそうだ。 以前、テント村で隣に住んでいたぼくの出番ではある。 そう思うと、決して嫌ではない。 Fさんの伸びた足の爪は、指を包むように湾曲している。 指に食い込むかのようである。 そこに爪切り器を差し込むような感じで切っていく。 全部で5分とかからず、任務は完了。 その後、お茶を飲みながら将棋をさす。 ぼくも強くないのだが、Fさんは棋力が落ちてきたようで、ぼくが勝ってしまう。 病気をして体が弱ってくると、だんだんと将棋も弱くなる。そういう人をこのテント村で見てきただけに、勝つことはなんだかさびしい。 今日、Fさんから電話がかかってきた。 そして、考えてみれば、昨年末に1年くらい続けた仕事をやめたので、今や、このFさんから貰うお駄賃(1000円)がぼくの唯一の定期収入なのである。 それもなんだかさびしい。 付記 Fさんのところに行って、爪を切ったのだが、いろいろと話をして、さぁ将棋をしましょうか、と言ったら、なんと将棋盤も駒も捨ててしまったのだと言う。 目が悪くなってきて、近くの物もにじんで見えるとのことだ。白内障と緑内障に左右の目がなっているとのこと。 もうやらないと思ったんだろうな、とまるで他人事のように言っていた。Fさんのコレクションしてきた日本の昔の映画(ビデオ)も50本くらい捨てたと言っていた。 布団もちゃんと片づけてなかったし、部屋が以前より散らかっていた。 もっと、頻繁に遊びに行こうかなと思った。 # by isourou1 | 2012-02-21 21:45
テント村においても、動物の飼い方は、それぞれ独特である。
例えば、猫を飼うにしても、紐をつけている人と、つけていない人がいる。つけていない猫は、それぞれのテリトリーの中を自由にうろついている。それで、たまに、声を挙げてケンカの仕儀に至ることもある。 紐付きの方は、主にテントの中かその周辺しか動くことが出来ない。テントに置いた猫砂で用便を足す猫もいる。 ぼくもナイトーという猫を飼っているのだが、紐をつけていない。その結果として、隣のテントでもごはんを食べているし、しばしばそちらで寝ている。隣のテントの人は、ほかに3匹の猫を飼っていて、その猫たちとナイトーさんは親しい付き合いをしている。 正直いって、公園にいるのに猫に紐をつけるのは、よく分からない。車の心配もないし、自然たっぷりの外にはきっと猫にとって心地いいものや興味深いものがいろいろあるだろう。しかも、用便を各自で処理してくれるのは、お互いにとって楽である。でも、紐をつける人は、持って行かれてしまうことやいたずらされることを心配している。その心配は、分からないでもないけど、、、。 まぁ、なんとなくだが、やはりそこは飼い主の性格が反映されているような気もするのである。ちょっと、支配的というか、それが裏表になった、依存、というか、、。 さらに、動物と飼い主は性格のみならず、顔も似てきたりすることもある、、、。 猫の散歩のさせ方も様々である。ぼくなど、猫なんだから勝手にうろつくだろうと思っているのだが、一緒に散歩する人もいる。我慢強く気ままな猫の散歩に、数時間も付き合っている人がいる。紐付き猫の場合、その散歩は、犬とさほど変わるまい。自転車に載せて、子猫を見せて走る人もいる。とにかく、飼い猫とべったりの人も多い。 こういう生活の中で強化されるところもあるのであろうが、テント村の人で「この子(猫や犬)のために生きている」という人はけっこういる。 先日、とある出来事(いずれ書くとは思う)があって、その出来事ゆえに、テント村の住人の一人が役人から「1週間以内に退去しろ」というあまりにも横暴な通告を受けた。そのこと自体は、その人の頑張りと多くの人の支援によって、だいたいはテント村にいることが出来る形に収まったのだが、通告した役人が同時に言ったことは、「犬は保健所に相談してください」ということだった。 その人(Uさん)は、もう犬と9年近くも暮らしているのだった。すでに老いのみえる犬について保健所に相談しろというのは、ほぼ殺処分しろ、ということと同じである。 その時より、Uさんの心配は、自分のことに増して犬のことになった。それゆえに、元来は強い主張をするタイプではないUさんだが、一貫して役人に対して「絶対、動きません。この子を最後まで、まっとうさせます。」と言い切っていた。 そのUさんは、犬と共に一日の大半の時間を過ごしていて、離れるのは、炊き出しに行く時ぐらいで、長くて1時間ほど。冬は、日向で犬と共に横になっている。 Uさんの犬は、拾った時は両手に余るくらいのチビだったのに、今では堂々たる大型犬であり、散歩の時も、小柄なUさんを引きずるようであり、また吠え声も号砲のように鳴り渡るといった案配である。 そのUさんがいうには、いまはいないUさんのパートナーと犬の性格が似ているというのである。 テント村には、たくさんの動物たちがいる。前は、いたずらカラスや、ウサギなどもいた。それぞれの飼い主たちと飼われている動物たちの関係によって、飼い主たちの人間性をテント村のお互いが感じあっているのである。
東京を流れている川の河川敷にあるテント村が、工事によって追い出されようとしている。
その工事は、テント村のあるところを湿地にして自然観察園にするという、おそらく実現してもほとんど利用する人がいないと思われる計画のために行われている。 河川敷には、大きな柳(テント村住人が植えたという伝説あり)が10数本立っていたのだが、それは切り倒してしまった、、、自然を大切にするという題目からも矛盾しているのだが。 そこには、猫がたくさんいる。 飼われていた猫は、小屋とともに移動した奴もいる。 しかし、餌だけをもらっていた奴は、そのままになっている。あたりの草木は刈られて丸裸になり、居場所もあまりなく、餌をくれる人も減ってしまった。 猫だらけの状態なのである。 もちろん、もともとは捨て猫たちである。 空き缶収集などでの微々たる(失礼)収入の中から、住んでいた人たちが餌を捻出していたのである。 その他、猫ボランティアの人たちも来ていて、餌をあげてている。 Kさんというたくさんの猫を飼っている人がいる。 Kさんは、行政の圧力のために、他の場所に移動した。 しかし、猫の移動に時間がかかるために、小屋はしばらく残していた。Kさんは、すべてが猫優先、の人だ。 猫の移動が終わってから、小屋は壊したが、Kさんが餌を与えていた自分の猫(それでも7匹くらいはいる)以外のいわば野良猫たちのために、近くに小屋を再建した。 猫小屋である。 ぼくと同じテント村に住むIさんとぼくは、一応絵描きでもあるために、Kさんとともに猫小屋の装飾をすることになった。 そうなって分かったことだが、Kさんは、もともと絵描きになりたい気持ちがあったそうで、ペンキ屋や看板屋ならばやったことがあるそうだ。 猫小屋といっても、はっきり言って、人が一人充分に住めるくらいの大きさがある。 猫小屋全体で1匹の猫にすることにした。 河川敷には、行政に壊された小屋の資材があちこちに放置してある。 入り口を顔にして、小屋の上に耳をつけ、木の枝で髭をつけると、、、猫である。 しっぽをホースで小屋の上につけると、ますます猫である。 Kさんは職人的な手際の良さでもって、ぼくらがやろうとすることを、材木を組み合わせて実現した。 2回目の作業は、さらに小屋サイズの猫に色をつけることと、小屋の側面に、その猫にじゃれる子猫たちを描くことになった。 Kさんは、「スケッチしようかと思ったんだけど、、時間がなくて、、」といいつつも、下書きもなしにいきなりペンキで、赤い鞠と白い猫をブルーシートの上に描いた。 ぼくも、その場にウロウロしている猫たちをスケッチして、側面に描いた。 Iさんが描いた小屋サイズの猫の顔は、ぼくらが公園で飼っている猫に似ている。 少し、ひいて全体を眺め歩いたKさんは、うれしそうに「すばらしい」と言った。 いや、たしかに素晴らしい猫小屋になった。 河川敷に残っている住人の方々や、近所のテント村の人たちが、10人くらい小屋を見にきて、口ぐちに誉めるのだった。 「納得した!」「猫バス(トトロ)みたいだ」「動き出しそうだ」「素晴らしい」 普段は口数の少ないKさんも「みんなも猫の絵を描いたらどうかと思って、、。ドラえもんでもいいんだから。」と言う。 本当に、猫小屋は輝いて見えた。 # by isourou1 | 2011-12-23 14:27
年を一才とる、ということも大変だ。
昨日がぼくの誕生日だった。 数字が一つ増えるということが、何も大変なわけではもちろんない。しかし、確実に老いていく、ということを確認する日であり、それを大げさにいえば引き受けていく日である。 毎年のことながら、昨日も、誕生日会を行った。 なんで、わざわざ自分の生まれた日に人に集まってもらうのか(主催したのは、ぼくではないにしても。)。 それは、やはり、この年をとっていく、ということを「みなさん」と一緒に乗り越えていく、というと、いかにも大仰ではあるが、、、そういう含意がある。 なんだろう、みなさんがぼくの産婆であり、ぼくもみなさんの産婆である、という一種のサンバカーニバルというか。そういう狂騒の中で、どうにか無事に今年も一才年を加えていける、という。年をとるのにも、産みの苦しみが薄く繰り返されるわけである。 そこで、今年は、誉め大会、なるものを行うことになった。とにかく来てくれた人に、ぼくが誉めてもらうのである。絞り出した苦肉の一言、悪いところをどうにか逆転させる、割と素直に誉めるかと思うと釘をさす、感謝を述べつつプレッシャーをかける、ほかを目をつぶってピンポイントを狙う、ともかくもすべてが誉め言葉だ。 誰でも言うことであるが、年をとると、一年が早い。 その早さの体感には、あまりに取りこぼしたことが多い、やれてないことが多い、寝て過ごしてしまった、、、という無為なる時間への悔やみが織り込まれている。 四〇歳を過ぎて、年をとることに、ある種の重力が感じられる。重いわけだ。なんとか誉めていただいて、それを乗り越える、虫がいいか。 そして、年をとるのはぼくばかりではない。みんなである。テント村には、年をとっているという意味での先輩たちには事かかない。ぼくなどは、「まだ若いから」の一言で片づけられることもある。 誕生会に来てくれたテント村の人たちの二人は杖をついていた。一人は、ガンで、一人はぎっくり腰で、歩くのがやっとなのであった。それでも、なお、誕生会にきてぼくなどを誉めるという気持ちの余裕がある、それはすごいことだと思う。 それにしても、、、入院中の人もいるし、、、テント村全体が老いてきている、ということをまざまざと感じた。 新しい生命が誕生しないことはもちろん、新しい住人も増えないのだから、当たり前ではある。 このまま5年、10年とテント村は老いていくのだろうか、、、。そう思うと、焦りにも似た気持ちが湧いていくる。 # by isourou1 | 2011-12-13 12:06
冬が近づいてきました。
今日と一昨日、2つのテント村を訪れた。 そして、やっぱり思った。テント村は、ぼくにとって、美しいものなんだということを。美しいという言葉は、使い古されているゆえに、きっと伝わることは難しいのだと思うし、俗っぽい言葉であるから言ったそばから逃げていくものであるにせよ。 ぼくの住むテント村をイギリス人の映像作家が16ミリ(今どき16ミリ)で撮影をした。撮影したがる人はけっこういる。そして撮影という行為は、テント村の人にとってはだいたいストレスになるのだが。そのイギリス人は、テント村をしきりに「美しい」と形容していた。そう言われるたびに、ちょっとした違和感があるのだ。つまりは、美しいというだけですか?他にも色々あるわけですが、、という気持ちだ。どこか間のぬけた響きなのだ「ビューティフル」という言葉は。だから、もちろん、ぼくが訪れたテント村にも、他にも、というか、他こそがあるのだろう、というのは分かる。まして、ぼくが訪れた村は、どちらも、行政からの強制的な排除が目前に迫っている場所だ。だから、美しい、とは口には出さない。しかし、胸にあるそういう思いは消せないし、また消す必要もないものだ。 広々とした河原、ところどころ水はけが悪くて湿地のように小さい池がある。すでに工事がはじまって、壊されたテントが土砂と一緒に積み上げられている。そこからは、ブルーシートや生活雑貨が、はみ出したり突き出したりしている。 大きな柳が、数十メートル置きに、忽然と立っていて、その下には材木とブルーシートで作られた小屋がある。 柳と小屋と川と広い空と高速道路、そして沼が、ぎりぎりのバランスだ。風が強い。雲のない空から水平に太陽光が差してくる。新しく作った小屋の前で、一升瓶のケースをひっくり返してイスがある、それに板を渡してテーブルだ。そこで、10人くらいでコーヒーを飲む。あたりは、フェンスで囲まれたり警備員が立っていたりする。猫が多い。段ボールで作った猫小屋が点在する。地面は、泥でデコボコしている。もうすでに引っ越しをしてしまった人が遊びにきて、バナナを差し入れる。その人は、猫を10匹くらい飼っていて、猫の引っ越しはまだこれからだ。小屋に遊びにいかせてもらうと、やたらに顔の大きいどちらかというとブサイクな猫が、飛び出してくる。ものすごく人なつっこく、ひっついてくる。マロンちゃん。ひっくりかえったりする。5、6匹出てくる。遠くからみている猫もいる。この人は、猫のエサを買うために、アルミ缶集めをしているようなものだ。しかも、やすい固形フードではなく、缶詰を買うらしい、一台しかないストーブを猫のために小屋に置いている。さきほどのゴミ集積所も、枝などがからまっていい具合らしく、よく見れば猫たちが住んでいる。国土交通省の役人がきて、なんやかんやという。それに対して、こちらもなんやかんやという。小屋にはそれぞれの個性がある。経済的地理的様々な条件と風月と気性によって、こういう形になったという、そういう存在感がある。柳の木は、はじめにここに住み始めた人が、挿し木をしたものらしい。 もう一つの場所は、そこも川という名前がつくが、高速道路の下であり、用水路を埋め立てたところだ。 新しく公園にするということで立ち退きを迫られている。 その団結と他の地区との連帯のための「いも煮会」というのがあった。ぼくが行った時は残念ながら、いもはなくなってしまっていたのだが、、、。 ここの人たちの団結感は半端ない。河原は60代70代という感じだったが、こちらは10才くらいは平均して若く元気がとにかくいい。 一カ所に押し込められるような形になっているのだが、前に来た時より、小屋は増えていた。 真ん中に小さな広場があり、それを囲むようにがっちりとした小屋やテントが立ち並ぶ。 橋の上から見ると、ある整序感があり、それがまた団結の強さを思わせる。ブルーシートで青ざめた空間である。 大阪のN公園のことも思い出す。あそこも水たまりがあった。何を燃やしているのか緑の炎が上がっていた。パイプで組んだ団結小屋があり、そこでスイカを食べたのだった。でかい犬が何匹もいて、役人がくると吠えるのだそうだ。50軒くらいの小屋が横町のように並んで、ところどころに小さな菜園がある。公園内にはフェンスが立ち並び、まるで迷路のようだ。住人は、ぶらぶらと歩いていた。麦藁帽子をかぶったおじさんが自転車で帰ってきた。そのおじさんは、活動家で刑務所に何度も入ったらしく、刑務所では「恋愛小説が読めてよかった」と言っていた。 テント村の美しさは、しばらくいないと分からない。パッと見ただけでは、それは、単なる薄汚い場所に見えるだろう。でも、しばらくいれば、分かってくる。つまり、そこにある生活の片鱗と共に、その場の「そうでしかない」という感じがやってくる。ちょっと分からないバランスが確かにあるのだ。 で、おそらくずっといると、それは分からなくなるのかもしれない。 美しい、というのは、表面的な感性のようでもあるが、そこには何かがある。何を美しいと感じるかは、その人の経験で構成されてきたものだろうし、また、その人の原風景的なものが感応しているのかもしれない。でも、それだけでもない何かがあるのだろうと思う。 クリストファー・アレグザンダーという建築家がいる。 もともとは、徹底的に分析的に建築を捉えていた人だけど、だんだんと建築においては「無名の質」が大切なのだということを言うようになった。 無名の質は語ることはできないが中心的なものだ、そしてそれを知るには分析的な考えは道具にはなるが、まずは「心地よく感じる」ということの中にある。生き生き感じられるということの中に、無名の質はある。無名の質は、無我ということから、無我ということにも配慮しないことの中から生まれるとして、八百屋の棚とか、ビールケースなどが積まれた漁船の甲板などの無造作の場所を例としてあげていた。 その環境の中で、その人自身の手によって、それなりの年月で、ぎりぎりの形が生まれてくる。無造作の人たちの無造作な生き方ゆえの無造作の風景というものが立っている。もちろん、これは簡単に言い過ぎなのだが、それでも「無名の質」がテント村には深く浸透しているとは言えそうだ。そして、ここで、建築家のことを思ったので、ついでにいうと、ナイキ公園(現みやしたこうえん)をつくるような建築家は、いくら野宿者の小屋を著書に引用したとしても、そういうことをまるで感じてはいないのだろうと思う。 テント村というのは、それぞれの味がある。だから、そこがどんなに困難な状況下にあっても、やはり行くのはワクワクする。そして、そのような場所がなくなることへの怒りの幾分かは、そういう気持ちに根ざしている。
テント村の近くにこんもりとした芝生の丘がある。
森の中のぽっかりと開けた場所である。 このブログでも、たびたび登場してもらっている元住人で現ネットカフェ難民であるヒーラーNさんが、教えてくれたのだが、この丘は「煩悩の丘」と呼ばれているらしい。 果たして、どこで呼ばれているのかはよく分からなかったが、このネーミングには少し笑った。 Nさんは、テント村に住んでいる時から、この丘に上っては、独特の全身クネクネ運動をやっていた。それは、まるで宇宙と交信しているように見えないこともなかった。 そして、彼の話では、「この丘は空洞になっている」ということだったが、別のテント村住人に言わせると「昔はこの丘はなかった。何かの沼地を浚った土砂やゴミを集めて丘を作った」のだらしい。 それは、ともかくとして、この丘では、Nさんばかりではなく、気功をする人や瞑想する人もたまに見かける。 いわゆるパワースポットなのだろうか。煩悩を断つ修行の場であるから「煩悩の丘」なのか。 それとも、カップルがいちゃつくことがあるから、なのか。 春先から秋まで、この丘では、日焼けをするために半裸で寝転がっている人がけっこういる。また、野宿の人も寝ている。犬も走り回る。 要は多様な使われ方をしている丘だが、「煩悩の丘」と言われると、なぜだか、ぴったりなネーミングのような気がする。 # by isourou1 | 2011-11-02 19:39
エノアール秋まつり、楽しかったですねー。ありがとうございます。
そして、続いての「絵のある生活工房」2011秋の企画はこれです!!。 芸術の秋! 「絵を描く会」の常連である万年さんの展覧会を、ついに満を持して、エノアールで開催します。 その名も「まんねん展」!! 深まりゆく秋の景色の中で、じっくりと万年さんの絵画をご覧ください。 日時 10月29日(土)30日(日)31日(月)11月1日(火) 13時から日暮れ(17時くらい)まで *雨天時は中止です。 *馬肥ゆる秋!飲食物の差し入れ大歓迎です。 主催絵のある生活工房07066679604 ********* 多くの方に来場していただきありがとうございました。 日曜には小雨がぱらつく時もありましたが、この時期にしては暖かい、ほがらかの天気の中で、まんねんさんの絵が展示できたことは幸運でした。 近隣のテント村の人たちも、けっこう立ち寄って熱心に見ていました。 中でも、見事なパステル画を「ぼくの描いたのも見てください」と持ってきた住人がいたのには、驚かされました。お互いが触発されるという感じは面白いです。 まんねん展は終了しましたが、「絵をかく会」に来たら、だいたいまんねんさんがいるので、彼の絵を見ることはできます。 # by isourou1 | 2011-10-27 15:17
![]() テント村は大丈夫か、というメールもいくつか頂きました。ご心配ありがとうございます。 特に大きな被害は出さずに済んだようです。 公園に住んでいて台風で怖いのは、風雨よりも枝の落下です。今回の台風でも、一面に枝が落ちました。中には太いものもあります。写真の木は幹の途中から折れました。根っこから倒れたものもありました。4、5本はでかい木が倒れたようです。こんなことは、今までに経験したことがありません。今回の台風の強さが分かります。 枝の落下や倒木がより怖いのは、テントを持たないで樹下で寝ている人たちです。倒れた幹が隣の木にひっかかったから助かったという人も今回いました。 さらに台風の時に気になるのは、河川敷で小屋がけしている人たちです。隅田川や荒川でも、床上まで浸水したという報告を聞きました。多摩川ではどうだったのでしょうか。 台風が通りすぎた後には、それぞれの体験(テントのシートが飛ばされそうだった、、とか)を語り合います。 そうして、お互いの無事を確認します。
今年は、まだカラスの襲撃はうけていないのだが、、、。
それでも、ポツポツ、テント村の住人の間で、カラスに襲われた話を聞く。 この梅雨とその前後の時期は、カラスは雛がいるために神経質になっている。 カラスが道や木の上に群がっている中を歩く時、少し緊張する。 背後から音もなく飛んできたカラスに頭を爪で蹴られる、、、痛みは深刻ではないが、これは存外、怖いものである。なんかカラスから負の刻印が押されるかのような衝撃もある。そのため、棒を持ち歩いている人もいる。晴れているのに傘をさして歩いている人もいる。 ぼくは、こちらから威圧しなければカラスも襲ってこないのではないか、との考えからなるべく知らんふりで歩いている。カラスは頭がいいので、いじめた人の顔を覚えているという。ぼくは、そういうことをしないようにしているが、それでも年に一度くらいは、頭を爪で蹴られることがある。 代々木公園には、2、3カ所に、カラスを生け捕りにする大きな鳥かごがある。テント村に隣接しても1つある。このカゴは、餌が下げられていて、外から入ることは出来るが中から出ることが出来ない仕掛けになっている。常時、数匹入っているようである。仲間か親兄弟か分からないが、カゴの周りにいるカラスが、せわしなく様子を伺っている。 この捕獲カゴは、石原慎太郎が都知事になり東京のカラスを減らすと宣言してから、施策として始められた。夜中にこっそりと捕獲されたカラスは回収されているらしい。(友人が午前3時ころ車が回収にくるのを見たとのこと。) 回収されたカラスは、どんな方法で殺されているのだろうか。この公園には、バードサンクチャリがあるが、その中にもカラスの捕獲カゴがある。鳥の聖域と名指された空間で、カラスが生け捕りにされているという、実に皮肉な事態である。(補記1) こういうことをしているから、カラスの人間全体に対する潜在的な怒りがあるような気がする。ぼく一人が、危害を加えてませんよ、という顔をしても、通用しないのかもしれない。 その一方で、ホームレスには、カラスと親密な関係を持っている人もいる。通称ドカコさんという、童話から抜け出てきたような素敵な出で立ちのホームレスの女性がいる。年齢は不詳だが、それなりに高齢である。彼女にとってカラスの総称が「ドカちゃん」であり、そのため自分の名前も「ドカコ」である。炊き出しで余ったものなどをカラスに分け与えては、ドカコはカァカァカァと鳴いて手を羽のようにひろげる。カラスと自分を同一視しているのである。カラスはかっこいい、とドカコは言っていた。 たしかに、都知事が毛嫌いしているという意味でも、カラスとホームレスはどこか似ているところはあるようだ。以前、このブログにも書いたことはあるが、怪我をしたカラスを飼っていたテント村の人もいた。羽を損傷しているのか飛べないカラスだったが、非常に利口で、ぼくは靴を隠されたりと散々困らされた記憶がある。飼い主には、子供の頃から飼われているので非常になついていた。そういえば、先日、こんなことがあった。ぼくのテントの裏に洗濯物を干している時、近くのテントのおじさんから声をかけられた。「そこに、カラスの子がいるから、気をつけないと襲われるよ。」。見ると、すでにかなり成長した、でもまだ飛べないらしい黒ぐろとしたカラスがうずくまっている。そして、樹木の上で、親カラスがカァカァと警戒音を発している。「つかまえようと近づいたら、頭を蹴られたよ。」とおじさん。「餌は大丈夫なのかな?」というと、「さっき、なんか親がきてあげていたようだ。」とおじさん。ぼくは、急いで洗濯物を干した。「襲われるのはかなわないな。でも、カラスの住処に人がいるのがいるんだから仕方ないけど。」と言っておじさんはハハハと笑った。「洗濯物干すんだな、と思ったから声をかけたんだ。」。「ありがとうございます。」と言って、ぼくは立ち去った。このおじさんと話したのは1年ぶりくらいだ。近所だけど、気が合わなくてお互い敬遠している関係だったのだ。カラスの取り持つ縁によって、話すことになった。その後、カラスの子の姿は見ない。巣に帰ったのではないか、ということだった。 (補記1)2011.7.27 まだカラスの捕獲カゴあるのかな、と思って、バードサンクチェアリーに行ってみた。 あるある、なんと視認できる範囲で3つもありました。中ではカラスが羽ばたいていた。 バードサンクチェアリー(野鳥誘致園)は、この公園の目玉の一つであったはずだが、現在開いている様子はない。文字がかすれた古い看板の結びの文句は以下の通りである。 「野鳥たちが安心してすみ自由に遊べるようにした野鳥たちの楽園です。」
最近のエノアールに(特に土曜)集まる人たちは、テント村の人か、路上で暮らしている人たちがほとんどである。
新しく今の場所(代替地と呼んでいた)に移ってきてから5年くらいがたとうとしている。人間関係も、様々な出来事による急激な変化というのはあるが、基本的には木々の成長のように実にゆっくりと深まり枝のように絡み合ってきている。テント村の人でエノアールに訪れる人も少しだけ増えてきた。エノアールというか、生活の延長、一部として、この場所が機能している。 将棋がはじまり、他愛ない昔話(グループサウンズがどうしたとか、、芸能人がどうだとか、、、高校生のころはこうだったとか、、)や、炊き出しの情報交換、誰かさんの悪口などに花がさき、たまたまウクレレを持っている人がいたので、リクエストで昔の曲を演奏する。傾きはじめた太陽が、地面の土を木漏れ日でまだらにしている。ウクレレ、とりあえず形ばかり抱えてみる人。つまらない駄洒落。いい加減にしろ、という突っ込み。将棋の勝敗はなかなかつかない。2人ともだんだん真剣な表情だ。IT関係で働いていた路上の人が、モバイルパソコンを開いて、何かを調べている。ここ数日と比べると幾分今日は暑さがしのげる。少し、風が吹いている。隣のテントの人が、飼い始めた子猫を見せにくる。両手に収まる大きさだ。かわいい、かわいい、との声があがる。最近よく来るおじさんが持ってきた牧師の講話のテープが聞きたいということになり、テレコで再生する。風の間に間に聖書の言葉。夕方をすぎると蚊が増えてくる。しかし、今年はまだセミがなかない。今年は、ナメクジもカエルも少なかった。放射能のせいかしら。原発の話になる。だんだん日が落ちてくる。テーブルのお菓子をしまいだすと、みんな腰をあげイスやテーブルを片づける。今日は、解散。別れの挨拶。でも、まだ2人くらい残って話しを続けている。 こういう時間の中で、口には出して言わないが、ぼくは「永遠の相」を少し感じる。永久に続いている時間の中に今いる、、という感覚。ずーと、繰り返されてきた時間、人の営みの変わらない古層がまざまざと立ち現れてくるような不思議な感覚だ。この光景が、どこかで自分の奥の方と共鳴しているような、懐かしくもあり、時間が止まったように退屈でもある感覚なのだ。 この社会にある問題は、様々な形をとってこの場所でも繰り返されている。それに目を向けずに、こんな感覚にとらわれている(そういう特権)についての批判はあるだろう。 ふと訪れた文学的な人が、同じようなことをいうことがあり、そういう時に、ぼくも、それだけじゃないんだけどなぁ、とは思う。 しかし、今日みたいな日、何もないような静かな日、時に空に浮かぶ夕焼け雲がやけに身に迫るようにして、ふとテント村の、この場所の「永遠の相」にしびれてしまうことがある。 # by isourou1 | 2011-07-04 00:34
野イチゴの季節がやってきた。テント村のまわりには、野イチゴが多い。テント村以外にも公園の中には、野イチゴの穴場はあちこちある。朝起きたら、人目のつかない木陰の奥へと行くのだが、その途中でも野イチゴは実っている。ここは、テント村の人しかしらない小さく開けた野原である。野イチゴは、背の低い草のために、地上近くから20センチくらいの間のところに、真っ赤な美をつける。だいたいの大きさは、ビー玉くらいだが、中にはチュッパチャップスくらいのもある。輝くばかりの赤で群生している様は、ルビーを散らばした、といえなくもない。今が食べごろだ。時期が遅れると、白いウジ虫がつく。一つ粒食べると、その自然な淡い甘みに、次の一粒へと腕が延びる。野いちご狩り。10粒ほど食べて一息つく。熟れ具合によって、甘みがちがう。ジャムにする手もあるが、そのまま食べるのが一番うまい。そして、洗わない方がうまい。ただ、なんとなく、猫や犬やその他のあれがかかっていないが気になるところもあるが、ともかく自然なうまさだ。これで、朝は、目覚める。
# by isourou1 | 2011-05-07 12:00
はっきりいって、ぼくは、現在、将棋が弱い。勝たない。おそらく10連敗以上しているだろう。常に同じ相手ではない。この連敗記録の相手には、6人は含まれている。
かといって、ぼくは、初心者というわけでもない。将棋を覚えたのは小学生だし、過去には、エノアール将棋大会で、優勝したという輝かしい出来事もあった。少なくとも、そのころ、戦っていた相手は、いつの間にか強くなった。と同時に、ぼくは、弱くなった。弱くなった以上に、負けてもいいやぁ、という気分になっている。負けず嫌いだから、かつてはかなりの頑張りをみせていた。やたらに長考しては、嫌がられていたものだ。今は、コロコロ負ける。ウサギの糞みたいにコロコロである。エノアールでも負けている、花見の席でも負けている。ついでに、コンピューターにも負けている。そう、パソコンで将棋をやる程、今、再び熱が入ってきているのだ。そして、図書館で将棋の本を借りてきては(大山康晴に限る。顔もそうだが、棋譜の解説に何気ない味がある。)、勉強中。そして、素知らぬ顔で負けている。でも、たぶんいつか勉強の成果が現れ、アっと言わせる日がくることを夢想している。やっぱり、負けず嫌いは治らない。 将棋というのは、ある意味、路上の友である。あちらこちらの公園で、将棋をしている人を見てきた。大阪の長居公園には、将棋のスペースがあり、なぜか将棋用の物置まであった。中野の哲学堂公園でも、高知城の下でも、横浜の寿町でも、広島の平和公園でも、パチリパチリとやっていた。ぼくの公園の近くの路上でも、地面に盤を置いて打っている。段ボールハウスで住んでいる人たちもよく将棋をしている。そんな時、なんとなく横に立ってみてみる。といって、それなりの真剣勝負に端から言葉は挟めない。その微妙な距離感。そういうことがさりげなく出来るようになりたい。 目下のところ、テント村で強いのは、Eさんである。段違いに弱い相手に対しても、終わったらお礼をいい、丁寧に遠慮がちに指導をする。そして、請われれば何局でも打っている。人間が出来ているようだ。ぼくは、飛車を落としても勝てない。ケンさんも、持ち前の集中力で、Eさんに迫っている。ケンさんは、本気になると爪をかむ。あとは、どんぐりの背くらべのようだ。 今は、路上の人になって、滅多にテント村に訪れないが、もとヤクザな稼業だったKさんは強かった。 ある時、泥酔していたKさんと将棋を指したが、全然歯が立たなかった。急に、夕立が降り始め、ぼくは傘を差したが、Kさんは「傘はいらない」と肌着一枚で雨に打たれ、びしょぬれになりながらも強かった。雨に打たれて水しぶきをあげているKさんの絵にかいたような男っぷりが目に浮かぶ。Kさんは、将棋をさしながら「おう、そうくるんですかい」「まだ考えているんですかい」などと言って、それが面白くもあり、腹に染みるようでもあった。 泥酔していたからなのか、配慮なのかは、わからないが、翌日になると、ケロリとした顔で「昨日は、ISO君に負けた、負けた。完敗だった。」という。いくらそうじゃない、といっても聞く耳を持たなかった。 イッツ将棋ワールド。それは、強くても弱くても、人間くさい世界である。
今年も公園の桜は咲きました。
今、満開です。 今年の桜は例年以上に鮮やかで、しかし花見の人はいつもより少ない感じ。 この時期は、テント村の人は忙しい。特にアルミ缶熱めを生業にしている人たちは忙しい。花見で浮かれている人の脇で、黙々と缶を収集していたりします。瓶に余った酒で、酒盛りをしていることもあったけど、今年は見かけない。あとは、食べ物や小銭を拾ったり。敷物として使い捨てにされたブルーシートを確保するのも大切なこと。これはぼくもやる。しかし、やはり例年ほどは、大きくて厚い良質のものは落ちていない感じだ。 とはいえ、今年の花見の本番は、今度の土日だろう。 そして、(ここまでが長い前ふりでもあったわけだが)、4月10日(日)にエノアール主催で花見をやります。 昼2時から夜8時ころまで。 くわしいことは、isourou@hotmail.comまでメールでお問い合わせください。 # by isourou1 | 2011-04-08 02:14
地震、津波、で多くの人が亡くなりました。
避難所で暮らす人も大勢います。 ぼくが暮らしているテント村では、地震での被害は特になかったようです。 また、東京での野宿の人の被害というのは、今のところ聞いていません。 テント村のある公園は、避難場所に指定されているくらいなので、ある意味、地震には安心できる場所です。 地震当日も、避難する人が多少公園に集まったようでした。帰宅困難の人は、夜は、屋内の避難場所へと移動したようです。 もしも、春以降だったら、そのまま公園で野宿する人もいたかもしれません。 関東大震災や東京大空襲の時には、多くの人が公園に避難して、その後バラックをつくって生活しました。 東京で大きな地震があれば、この公園もそうなるでしょう。 その時には、この村の生活の知恵が多少なりとも役立つのではないかと思います。 と同時に、長年野宿しているケンさんは、「一般避難民に排斥されるのではないか」と心配していました。阪神淡路大震災の時には、避難場所から野宿者が排除されたという話があります。 今回の被災地のもともと野宿の人たちが、どのように扱われているのかも気になるところです。 テント村は、もともと電気がないので、停電になっても直接的な影響はないのですが、現在の品薄状態は少し困ります。 なにが困るかというと、カセットボンベとローソクと電池。どれも、テント村では必需品です。 だから、テント村の話題としては、どこの店にはボンベがあるか、というのが多い。そして、今はほとんどの店でボンベは手に入らないらしい。まぁ、でも昔のように焚き火をするという方法がある。管理事務所がうるさくて、ここ数年冬でもしていなかったのですが。 原発が爆発したら、このテント村の人たちはどうするのだろう?動きたくても、お金がない人も多そうです。 現在、多くの情報がそれこそ津波のように襲いかかり、それから耳目をはなせない状況です。その中で、むしろ孤独になったり、取り残された気持ちになっている人が、いるような気がします。 ぼくは、テント村での周りの人との会話によって、自分を取り戻している感じです。 (3月21日付記) 今日、名古屋から来られた谷さんという方から、ろうそく、の差し入れをいただきました。 このブログを読んで、東京にきたので、わざわざテント村を探して届けてくれたということでした。 感謝します。 # by isourou1 | 2011-03-19 01:44
今日は、特別清掃。
管理事務所が回ってくるのを待ちながら、話す。 A「Mさんは、死に方としてはいい死に方だったと思うよ。苦しまなかったんだろうし。家族はいなかったんだろ。」 私「ぼくが、病院行った時に、ご家族ですか、と聞かれたから、それまで現れなかったということだと思うけど。」 A「写真週刊誌で見たけど、無縁仏、どっか倉庫みたいなところにドラム缶に位牌を詰め込んでいたな。恐ろしいなーと思ったよ。」 B「行路人というらしいよ。連絡がとれても、もう関係ない、と言う人も多いらしいよ。」 A「俺は、死んで連絡いくのは嫌だな。生きているうちに行くのは、もっと嫌だけど。死んでまで迷惑はかけたくないよ。」 私「まぁ、迷惑と思うかどうかは、相手が決めることだから。何人兄弟ですか?。」 A「5人。上に一人で妹と弟。しかし、どんどん死んでいくなぁ。」 私「テント村の古くからの生き証人はいなくなってきたんじゃないですか。」 A「うーん、もう3、4人しかいないよ。」 私「Bさんは、今、何年目?」 B「今度の6月で28年。自慢できることじゃないけど。」 A「自慢したほうがいいよ。他にいないんだから。」 私「講演会した方がいい。」 B「30周年はやろうか。30年というとそれなりだよ。でも、早い時と遅い時があるね。」 私「ああ、Aさんも言ってたね。40代は早くて、50代はゆっくりで、60代になるとまた早いって。」 B「ここ8年くらいはずいぶん長かったような気がするんだ。その前は、早かった。変化がないせいもあるんだけど。」 A「代わり映えしないもんな。」 B「あと、Aさん。最低生活していると度胸がつくって嘘だね。変わらないよ。最低生活していても、ビクビクするしね。腹が据わるなんてないね。」 A「そうかもしれないな。」 C「いや、そうでもないんじゃないの。親子やカップルの前でも、ゴミ箱から餌を取れるようになったり。」 B「いや、心根の部分は変わらないよ。」 C「はじめは、恥ずかしかったんだ。そのうち、そういう人、という感じを演じるんだな。」 A「まわりは案外、気にしないもんかもしれないな。」 C「ゴミ箱から、弁当とった時に、学生がワァーって言ったんだ。それ持って、便所で食べようとした時、シュウマイはかびていたんだ、でもこっちのチャーハンは大丈夫だなって。大丈夫なわけないんだけど。ところで、餌とりはしたことないんだっけ。」 私「ぼくは無いなぁ。」 C「この幸せ者。」 A「修行した方がいいかもしれない。」 C「はじめの3ヶ月は、公園のゴミ箱で食べていたんだから。弁当がでるところとか知らなくて。」 私「前は、よく回ってきた弁当があって、食べていたけど。」 C「そうなんだ、取れる時は一人では食べきれないほど取れるんだ。マックとか、はじめ、山のようにあった。肉だけ5枚重ねてダブルバーガー以上にして食べたり。そのうち、一人きて、それが知り合いを連れてきて、10人くらいになって。その場で取ればいいもの違う場所に持っていってゴミを捨てるから苦情がきたりして。」 A「それもなくなる原因の一つなんだ。」 C「食べれるものを別に分けたりしてくれるところもあったんだけど。そのうち、コンビニの弁当にコピーのトナーを混ぜたり、ハンバーガーとタバコの吸い殻を混ぜて捨てたり。」 A「嫌がらせだな。もう、今じゃ、コンビニなんてどこも取れないんじゃないかな。鍵して閉まっているから。」 C「タバコも、シケモクが、前は駅周辺で嫌というほど拾えたんだけど。1週間分くらい。」 A「やっぱり止められない?」 C「今も無理。駅前でシケモク拾っていて、置いてある週刊誌を拾おうとしたら、それ俺のだ、とからまれたことがあった。あと、プー太郎に呼ばれて行ってみると、その靴をあの方に運んでくれないか、って妙なことを言われたことがあった、、、。転がっている靴。」 A「前は、からんでくる奴がいたよ。食べ物とっていると、ここは俺のシマだ、とか。お兄さんどこから来たの?渋谷から、とかいうと、じゃあ渋谷でやって、とくる。まぁ毎日とっているものを横からとられるという気持ちは分かるんだけどねぇ。」 と、そろそろ事務所が回ってきたようだ。 # by isourou1 | 2011-03-10 01:20
今日3月3日、Mさんのお見舞いに山上病院に行った。Mさんの古くからの知人であるケンさんが拾った週刊新潮のバックナンバーとコンビニで購入した週刊文春の最新号を持っていった。Mさんは、週刊誌は新潮か文春で「ハダカ」があるようなのは好きではない、と前回言っていた。まぁ拾ったのは何でも読むけど、と付け足していたが。本は読むの?と聞くと、こういう生活に入ってからは読まなくなった。文字が頭に入らない感じがして、落ち着かない。若い頃は読むのが好きだった、と言って、井伏鱒二や芥川竜之介などの名前を挙げた。ぼくも、井伏鱒二は好きだから、いずれ持っていこうと思ったのだった。今日は、あとは、図書館の交換本コーナーにあった安保徹「ガン免疫力」という本も持って行った。手術や抗ガン剤、放射能治療ではなく免疫力を高めることでガンを治療しようと提案する内容だった。ちょっと今さらかなぁ、、、とは感じたのだったが。
病院の受付をすませ、薄暗い階段をのぼり病室に着いたのだが、入り口にMさんの名前がなかった。もしかすると、病室が変わったのかもしれない(以前から2回変わった)と思い、看護士に尋ねてみると「お家族の方ですか?」と聞き返された。「いいえ、友達です。」と答えると「友達、、。」と言いつつ看護士たちのたまっている部屋に引っ込んでしまった。しばらくして出てきて「Mさんは、2月22日に亡くなりました。朝4時半ころでした。」と言った。「そうですか、、、、その後はどうなりましたか?」と聞くと「もしもの時にと言われていたソーシャルワーカーに連絡して、引き渡しをしました。そこまでが病院のやることなので、その後は分かりません。」ぼくが立ち去ろうとすると「お見舞いにきていただきありがとうございました。」と看護士が言った。 受付の横にある待合いのベンチに座って、ぼんやりとした。前回行った時は、東京に大雪が降ってから間がない頃で、その話題をしたら、ここから見えなくて、と残念そうだった。部屋が変わってから窓がなくなってしまったのだった。鼻に酸素を送る管が差し込まれて、一段と元気のない表情だった。ぼくが行くと、Mさんはベットの上に膝を抱えるような格好で座る。そして、ベットの端に座るように手でなんとなく示すのだった。その膝を抱えた格好は、いつも所在なげだった。缶コーヒー2つとテレビカード1枚、そして自分用にごちそうになるミネラル水を受付横にある自販機で買うのがいつもの慣わしだった。いつもお釣りなどをくれようとするのだったが、ぼくは断っていた。この日は、1万のお釣りをくれようとした。「いらないよ。」というと「俺が持っていても仕方ないだから。もう長くないよ。お金が余っても仕方ないんだ。誰にも分からないだから。」「必要になるよ。」と断ってもポケットに入れようとしてくる。「じゃあ、またくるよ。」と逃げるように立ち去ろうとすると、実に気落ちしたような表情を浮かべた。 そんなことを思っていると、入り口から院長先生が歩いてきた。挨拶をして「今、Mさんが亡くなったと聞いてショックを受けているところです。」というと「ああ、区の方には連絡したんだけど」と答えた。「最期はどういう風だったんですか?」と聞くと「ぼくは、いなかったんだよ。自分自身が入院していたから。他の先生にお任せして。でも、最期は苦しまなかったと思うよ。」「結局、バイパス手術も出来なかったんですよね。」というと「そう、もっと前だったらね。大きな病院で、6ヶ月前だったら出来たかもしれないと言われたよ。相当Mさん我慢したんじゃないかな。」。いつになく穏やかな口調ででっぷりと太った院長先生は話していた。 それから、ぼくは、図書館に行って、交換本コーナーに週刊新潮3冊と「ガン免疫力」を置いて帰った。 # by isourou1 | 2011-03-03 22:28
世界一性格のいい猫として有名な「ナイトーさん」だが、やはり、猫なので、困ったこともする。朝(といってもいつも起床は、昼近くなのだが)キッチンテントを訪れて驚いた。テント入り口付近に何やら柔らかそうな羽毛が散らばっていて嫌な予感はしたのだが、テントをあけるとそのものズバリ、鳩が死んでいた。胸のあたりを赤く染めて、きれいな形でひっくり返っている。まわりには、遺体をのせる布団かジュータンのように羽毛が広がっている。なんか法王が死んだ、、、という有様なのである。木の下に穴を掘って、再び見返してみると、どうも鳩ではなかった。かといって、鳥に詳しくはないから何かは分からないが、柄がまるで法衣のようなので、法王の印象がやってきたことに気づいた。きれいな鳥である。そういえば、昨日、ちがう猫がこの鳥を狙っていた。草原の中では、保護色のようになっている鳥を、あまり見たことないなぁ、と思ったのだった。その時は、余裕で逃げていたが、今朝は何で油断したのだろう。ナイトーさんが、少し自慢気そして、無関心に、足元をうろうろする。もう、動かなくなってしまった鳥には興味がないのだろう。猫は、獲物を飼い主に献上するという癖があるそうだ。むしろ、恵んでやっているという気持ちだという話をきいたこともある。狩猟本能はあっても、餌をもらっている猫には、もう捕ったものを食料にしようという腹はないようだ。ナイトーさんをIさんに遊んでもらっている隙に、鳥を運び出した。手の平に載せるとまだ体温が残っていた。穴の中に置き、土をかける。少し土を盛って、木の枝をたてた。テントに散らばった羽を片づけながら、あの鳥を食べてもよかったかな、と少し思った。しかし、飼い猫同様、野生の鳥を食べるという発想も方法も、自分には備わっていない、ということを感じた。昨日、他の猫が狙っていたあたりに行ってみると、羽が散乱している場所があった。この世の名残りのように羽だけが木漏れ日に照らされていた。
ちなみに、これまでナイトーさんからのテントへの置き土産は、雀、ネズミ、鳩、などがあった。 ![]() (この鳥の名前ご存知の方は教えてください。) ![]() わが公園では、雪が降ると、訪れる人もなく、一面の銀世界で、別世界。 食堂として共有しているテントから外に出たとき、その美しい光景に誘われて、思わず散策してみた。ぼた雪が枝にのっかり、広葉樹は特に雪が積もりやすく、枝を道まで低く垂れている。落葉している木は、樹氷のようだ。外灯にところどころ照らされた広く白く静かな動くもののない世界。不思議と寒くない。 歩いていると、雪の重さに耐えかね折れた枝が転がっている。たまに、ミシミシミシというまさに生木をさく音と共に枝が落ちる音が響く。 外で木の下で寝ている友人は大丈夫だろうか。様子を見にいき声をかけるが反応がない。もしかすると、この大雪の中、缶を集めに出たのかもしれない。だいたい、無理した翌日は頭痛に苦しでいるのだが、、、。最近は、雨でもアルミ缶を集めるライバルが減らない、みんな合羽きてやるんだもの、と嘆いていた。 自分のテントに戻ってみると、足が止まった。 あれーー。テントを覆うブルーシートをかけている梁が、ぐんなりと中央部が落ちている。折れてる!!。ぼくのテントのシートは、片側は荷物なども覆っているために、勾配がゆるい。そこに雪が積もって、その重みで梁が曲がっているのだ。こうなると、光景の美しさに酔っている場合ではない。慌てて、Iさんとテントの雪下ろしを始めた。雪って重いんです。振り落とせるところは落とし、後はスコップで雪をかいていく。となりのテントの人も、雪を下ろしている。30分くらい作業しただろうか。梁は折れてはいなかったようで、雪の重みがなくなるとほぼ現状復帰した。テントのポールも一応大丈夫のようだ。 一安心してテントに入りかかった時、バリバリバリと轟音が鳴り響いた。ぼくのテントの脇に、7mくらいの枝が落ちていた。ついさっきまで作業していた場所だ。こんなのが頭に直撃したら、とんでもないことになっただろう。 こうして、この文章を打っている間にも、枝の折れる音が間欠的に響いている。 テントの中では、枝からまとまって落ちてくる雪が、まるで雪合戦で集中攻撃を受けているかのようで、打撃音の連続である。 うーーん、このまま雪が止まないなら、雪おろしもあるし今夜はあまり眠れそうにない。 (後記) 実際は、夜半からは、雨に変わっていたようで、2時ころに簡単に雪下ろしをした後は、ぐっすりと寝てしまった。 友人は、やはり缶を集めに出ていて、頭が痛くなっていた。
夕方に見舞いに行ってみた。ベットに寝そべり相変わらず骨と皮だ。まいったなぁ。と起き上がり、頭をなでる。本人の弁では、抗ガン剤によりバッサリと抜けたそうだ。あのまま飲んでいたら今頃、髪はないよ。輸血を昨日からしているそうだ。明日から明後日に手術をする、という。へぇ、N病院で?と聞くとH病院だという。でも、すぐに帰るらしいよ。とMさん。手術後は、しばらくその病院に滞在するものと思っていたので、意外であった。出張だな。とMさん。結局、ここで死ぬんだなぁという。点滴も2本刺さっている。特に、手術を前に不安だという様子でもない。そういった肝は座っているのかもしれない。テント村の大豆さんが、病院に行ったと言っていたので、尋ねると、ああ来たな、こなくていいって言ったんだ、来たってしょうがないんだから。とMさん。コーヒーを2本買ってから、相撲をテレビで見出したMさんを後に病室を出た。手術が受けられるくらい体力が回復したということだろうか、、。Mさんの手術は、ガンを切除するのではなく、食べ物が腫瘍で詰まってしまうことを避けるために、患部を飛ばして腸管をつなぐバイパス手術と言われるものだ。腫瘍はそのままだけど、食事をとれるようになる。Mさんにとってそれはうれしいはずだ。医療的には、経口の抗ガン剤の投与が可能になる。しかし、切開手術であり、マイナスだってあるだろう。医者がナースセンターにいたので、尋ねてみることにした。
「Mさんに聞いたら手術受けることになったと言っていたんですけど。」 でっぷりとした院長先生は、横を向いたまま「それは誤解」と言って椅子を回転させた。 「前の病院に見切りつけられちゃったんだよねぇ。Mさん、手術うけるとか受けないとか変わったじゃない。それで見切りつけられた。」 はぁ?と思った。なんだその言い方は、と喉元まで出かかって、グっと飲み込んだ。 「で、とりあえず、ちがう病院で検査を受けることになった。」 「、、、手術はしないんですか?」 「わかんない。するかもしれないし、しないかもしれない。」 「ここに戻ってくるんですか?」 「それも分からない。」 そうですか、と言って引き下がった。 なんだろうこの感じは。おそらく院長先生は、手術できる他の大病院を探すのにストレスがあったのかもしれない。個人病院と大病院では格の違いでもあって、頼みごとするのに苦労があるのかもしれない。実際、Mさんに以前院長先生が「N病院の先生から、Mさんどうなっているんですか、って連絡があったんだよ。こんなこと滅多にないんだから。」と言っているのを横で聞いたことがある。それにしても、「見切りをつけた」という言い方は、どうなんだろう。実務が大変なことは分かるが、こういう現実と言い方が平気で横行しているとは、お寒い限りである。患者が、手術を悩むのは当たり前だろうし、たしかにMさんは頑固な人だが、新たに再入院してからは、手術を受けたい、ということは揺るがなかったはずである。やっぱり、その見切りをつけたという「人道と博愛」を唱っている大病院にしても、個人病院の院長先生にしても、傲慢である感じがする。それによって、不信感を患者を持ち、そのため医師が強圧的になるという繰り返しがあるなら、医療にとってもマイナスにしかならない。まぁ、ぼくに誤解もあるのか分からないけど、そんな感じを受けたので、とりあえず頻繁にお見舞いに行ってみようと思った。 それで、ムカムカしながら買い物をして、自転車のカゴに荷物をのせる時、自転車を倒して、卵が割れてしまった。その時、スっとして、急に怒りが収まった。不思議なものだな、と思った。書きながら、また少し、腹がたってしまったが。 Mさんのエピソード「大阪にいく」 前回のエピソードは、病院からテント村に戻ってきた初めの日のことだった。 今回は、次の日とその次の日の朝までのことを書こうと思う。 Mさんがテント村に帰ってきてから一夜明けた日は、月に一度の特別清掃の予定だった。しかし、昨夜から明け方にかけて雨が降ったらしく、朝8時頃に延期のアナウンスが流れた。たしかに、再び雨が降りそうな空模様だったし、地面もだいぶ濡れていた。Mさんのテントを見にいってみると、Mさんはだいぶやつれた様子だった。夜2時ころまでテレビを見ていたというが、あまり眠れなかったようだ。雨が入ってきて床に敷いた段ボールが濡れたそうだ。「雪が降ったんだな。」とMさんが言っていて、たしかにテントの前に白いものが転々とあったが、触ってみると綿毛の固まりのようだった。「事務所が後でやってくるようだから、進退が決まるまでいさせてくれと言ってみたら。」というと「そうだな。」と答えた。地面に落ちている枝などを拾っては手でいじっていた。 事務所が延期の告知のチラシをもってテントに回って来たとき、係長の山崎さんに「Mさん帰ってきたよ。」というと「え、ウソ。どこに。聞いてないよ。」と驚いていた。事務所は対応に困っている様子で、後でくると言って立ち去っていった。MさんとよくMさんのテントを訪れていた米田さんの話をした。「米田さんは、マンガ喫茶で亡くなったんだそうだよ。公園で寝たりマンガ喫茶で寝たりして家には帰らなかったようだよ。どうしてかな?」とMさん。「Mさんもそうかもしれないけど、長年テントで一人でやってきた人がアパートに住むのは難しいよ。」というと「そうだ。」。米田さんは、アパート移行事業の時、アパートにはいかないよ、と言っていたのだが、気が変わったのか、テントを畳んだ。でも、アパート移ってからもよくテント村に来ていた。はなすと、諦観したような不思議に人なつっこい笑顔を浮かべた。炊き出しの列に並んでいることも多かった。好きな感じの人だった。セビロさんの話もした。Mさんは親しかったようだ。セビロさんは、H病院で喉頭ガンで亡くなった。セビロさんは、だいぶ刑務所も長かったようだが、静かな配慮のある人で、フリマで売れないガラクタのようなものを、フッフッフと笑いをこらえるような声を出しながら持ってきてくれた。ぼくも思い出深い人で、たまにセビロさんの家の前のたき火に当たりに行っていた。 そんな思い出話をしていると、事務所の人たちが戻ってきてMさんの説得を始めた。Mさんは、「仕方ないからいるんだ。歩けるようになったら出ていく。」と言っていた。午後から福祉の丸田さんがくるということになり、事務所はいったん引き上げていった。 午後になって、事務所の人たちがやってきて「Mさんは山上病院に丸田さんと行ったよ。」というので驚いた。「テントは畳んでくれる?」。というのでテントを見にいくと、Mさんの荷物がそのままにある。事務所も入院ということで行ったのかは分からないという。「本人は帰ってくるつもりとしか思えない。」というと「事務所で荷物は預かる」という。テントをこのまま建てているわけにはいかない、という姿勢だったが、「それじゃ、帰ってきたら路上で生活することになるよ。」と言う。係長は、「テントがあるからここに住むことを助長してしまう。」という。「とにかく病院に行ってMさんの考えを聞いてくるから、それからでも遅くはないだろう。」というと、事務所もようやく納得してくれた。 病院に直行すると、診察室から「新宿へ行ってどうするの!?」という大声が聞こえる。反論しているらしいMさんの声も。だいぶもめているなぁ、と思う。勝手にドアを開けて中に入ると、院長先生とMさんが相対しておりMさんの背後に車いすにもたれるようにして丸田さんがいる。「テント村のものです。」と挨拶すると院長は「Mさんが、仲間が仲間が、っていうんだよ。」。院長は少し優しい口調になり「Mさんどうしているかなぁ、大丈夫かなぁ、とぼくだってやっぱり心配したんだよ。」という。院長は、いろいろと説得しようとする。手詰まりになったのかぼくに「あなたはどう思う?」と振ってくる。「ぼくも頑固なんですが、やっぱり自分で確かめて納得しないと動かないと思います。Mさんの気に添うようにするしかないんじゃないでしょうか。」と答えた。「あなたも頑固なの、うーーん」と院長。「入院しないといけないのですか?」ときくと、院長は「絶対入院しないといけないということではないよ。食事と薬の管理がきちんとできれば、通院でも大丈夫だけど。管理する人はいないでしょ。」。丸田さんを見ると無理という。「薬の管理くらいなら、ぼくでもできるとは思うけど。」という。「でも、限界はあります。」と付け加える。Mさんが、今日は嫌になった、という。院長から、頭ごなしに自分の計画を否定されたので嫌になったらしかった。とにかく、明日再び病院にきて診察を受けるということになった。丸田さんが車イスを押して公園に戻った。外に出るとMさんも丸田さんも気が晴れたように話していた。やっぱり病院というのは雰囲気があまり良くない。 丸田さんは、事務所に挨拶をして帰っていった。係長と3人で外で話す。西日がまぶしい。ぼくは「事務所がテントを畳んだのは、Mさんの許可もあったみたいだし、手続き的におかしいとは言わないけど、帰ってくるということはよくあるんですよ。だから、進退がはっきりしてから畳んだ方がいいです。今回は、進退が決まるまでテントをお願いできませんか。」という。係長は、「事務所の立場としてはこのままというわけにはいかない。新規テントと一緒だから。まぁ、集約地以外なら滞留者という扱いもあるけど、、、。」Mさんが「今日一日だけ、テントに泊めてくれ。今日一日だけでいい。」係長は、「事務所として確認には行かないよ。」という。 車イスをおしてテント近くまで行く。Mさんは後ろも見ずにスタコラと歩いて自分のテントに向かって行った。 次の日、朝10時に病院に行く約束になっていた。そこで、9時半くらいにテントを見に行ってみると、チャックが半開きになっていて、50センチ四方の段ボールが入り口にたてかけてあった。ボールペンで殴り書きしている。その文句を読んで、のけぞった。 「大阪へいく。東京サムイ から大阪エク。ISOさんゴメンネ。」 えーー!大阪?? あまりのことに心配というより、面白い!!と思ってしまった。早速、カメラを取りにいって、段ボールを写していると、後ろから手を打つ音がする。振りかえると、草に隠れてMさんの姿。あれーー、大阪じゃなかったの?。テントから数メートル離れただけだが、草むらの中の一角が地面をならしてあって、格好の隠れ場所になっている。Mさんは、荷物を並べている。日干しと整理をしている様子だ。ちょうど日当たりがよい。ぼくは横にしゃがんだ。「大阪には知り合いがいるの。」「知り合いはいない。でも愛隣にいけば、誰かいるだろう。」「西成?。ドヤに泊まるの?」「そうだ。」「ドヤだったらさぁ、山谷とか横浜の寿町の方が近いんじゃないの。大阪は遠いよ。」「新幹線じゃ高くていけないものな。鈍行で10時間くらいか。」「それぐらいかかるよ。寿とかだったらぼくの知り合いもいるし、一緒に行くよ。」Mさんは、地面の枝を拾っていじりだした。悩む時のくせだ。「でも、近くだとまた山上病院に行かないといけないだろ。」「山上病院以外だったら行くの?」「行く。どうしても手術したいみたいで、おかしいんだ。」「渋谷以外だったら、山上病院に行くことはないよ。」「そうか。それだったら近いほうがいいな。」とMさん。大阪の話をやっと関東にまで持ってこれた。しかし、とても山上病院に受診にいくのは無理そうだ。でも、Mさんは、院長怒っているだろうなぁ、と気にしていた。毛布が濡れたからと言って、クリーニング代を三千円くれようとして断るのに苦労する。この秘密の草むらで、Mさんとこの日たくさん話した。気持ちが高揚しているのかいつになく多弁であった。 この時の話はまた次回に。 そして未だに気になっているのは、もしこの時Mさんが大阪に向かっていたらどうなったのかということだ。歩くのにやっとなのにとても、大阪まではたどりつかなかったとは思う。しかし、Mさんの場合やりたいことをやった時に思わぬ力が出るということもありそうだ。不安もあっただろうが、ワクワクした気持ちもあったように見えた。遠足前の感じもあったのだ。Mさんの未来に向かっていた気持ちをぼくは折ってしまったのかもしれないと心残りがある。 それでも、テント村には日頃は外側から分からなくても、そういう未来に自分の投げ出す人たちも住んでいるところなんだというのは言えると思う。それは誇らしいことだ。
昨日の夜は、今年一番の寒さだったらしい。朝、水場にあるバケツには氷がはり、地面もところどころ凍っていた。
それはともかく、胃腸の調子が悪い。腹がはってオナラがよく出るし、胃ももたれている。 それは、一昨日にもらったソーセージを食べたからだ。ぼくは、日頃、肉類をあまり食べない。年をとってきて食べられなくなったのと、値段が高いためもある。隣のテントの人が、「大量に拾ったよぉ。冷凍されているソーセージ。食いきれないよ。」とソーセージをくれた。2キロくらいある。隣の人は、あちこちのテントに配っていた。とりあえず、料理してしまわないといけないので、それでスープを作ったのだが、やはり慣れないものを食べ過ぎて、腹にきてしまった。 そして昔、テント村にソーセージやハムが大量にきていた頃のことを、胃もたれと共に思い出した。週に一回くらい、深夜にトラックに積まれた肉類がゴミ袋で10や20、いやもっとか、、運び込まれ、それをバケツリレー式に村に持っていって、その場で分配。分配というか、大量にあるので好きなだけもってけ、である。あの頃は、やたらに肉を食べていた。そして気分が悪くなっていた。夏になり運び込まれる肉の多くが腐敗しているようになってから、その行事は終わってしまった。こちら側の責任者が、腐った肉や引き取り手のない肉の始末(穴を掘って埋める)をしなくてはいけないので、だれもなり手がいなくなってしまったのだ。 テント村で暮らしていると、生活費のほとんどが食費である。ギャンブルや酒をやらない人の多くが同じだと思う。ケンさんは、エンゲル係数90パーセント、と言っていた。その食費も、炊き出しなどにいけばだいぶ押さえることができる。 ぼくは、あまり炊き出しにはいかない。それは、並んだり説教があったりと食べるまでに30分から1時間くらいはかかるためと、自分より食に困っている人が多いだろうとも思うから。テント村の人で炊き出しに行く人は、1割から2割くらいだろう。炊き出しは、圧倒的に路上で暮らしている人が多い。 ぼくは、スーパーに買い物に行って自炊するのが大半だ。しかし、思い返してみると、一昨日のソーセージのように周りの人からやってくる食材もけっこう多い。 例えば、2、3日前に水場で食器を洗っていると、となりで髭をそっているおじさんから「餅もらってくれない?」と声かけられた。餅とあんこが大量にあって困っている、とのこと。おじさんは、教会で料理をつくっているので、余った食材をもらってかえるのである。 企業や店の災害備蓄品が持ち込まれることもある。保存年数を越えてしまったので廃棄されたものである。でも、もちろんまだ食べられる。アルファ米といって、お湯で戻すお米や、水で戻すキナコ餅という奇妙な品まである。(これは、餅とはいえなかった。)。あとは、カンパン、缶詰など。 テント村には、年末年始には、週一回救世軍が夜に弁当を持ってくる。カレー弁当である。なぜか、やたらにニンニクが入っている。体があったまるようにという配慮であろうか。 通年で、パンを週一回持ってくる通称パンのおじさんもいる。自転車のかごにパンを一杯つめてやってくる。何年も前からずっとである。パンは少し堅くなったフランスパンや菓子パンなど。一人分ずつ小分けにしてある。たまに、バナナや野菜ジュースが入っている時もある。そして、渡すときに必ず「頑張ってください。」という。パン屋さんだと思っていたが、パン屋から残りのパンをもらって配っているどこかの社長だという風説もあり何者かは定かではない。しかし、ずっと決まったスタイルである。服装も変化ないような気がするくらいだ。ぼくもたまにいただいている。そして、頑張ってください、といわれるといつも何となく困った気分になる。 あとは、結構、パンのおじさんのパンや炊き出しで配られたバンをもらった人から、おこぼれをもらうことも多い。堅いパンを食べられない(食べたくない?)人もいるからである。野宿の年のいっている人は、たいてい歯を悪くしているものである。 炊き出しはいかないと書いたが、たまに行くこともある。テント村の近くで、昼は週3回か4回(各週で行う団体があるため)炊き出しがあるのだが、そのほとんどはキリスト教会である。それも、韓国やミャンマーなど外国の教会が主催していることが多い。最近になって、仏教系の団体も炊き出しを始めるようになった。これも、台湾だったりインド(サイババ)だったりで、日本の宗派は行っていない。ぼくが、たまに行くのは、この仏教系の炊き出しである。なぜかといえば、仏教だからベジタリアンであり、ぼくの胃腸には合っているためだ。カレー(炊き出しはほとんどカレーである。たまに、中華丼だったりすることもあるが。)だけど、肉の入っていない分具材も多くて、かなりおいしい。 ぼくの食生活はだいたいこんな感じである。たまに、外食をする。富士そばか松屋(カレー)か、うどんか。 最近、牛丼が安いですよね。かなり心惹かれるのだが、やっぱり食べた後胃腸がもたれるのである。
あけましておめでとうございます。
テント村の正月は静かです。なんだか今年は街にも人がいつもよりさらに少なかったような気がします。 正月3が日は、恒例の雑煮を作ったり書き初めをしたりして過ごしました。おみくじもつくってテント村に初詣できるようにしていました。Iさんが作ったおみくじがエノアールらしくないと、ケンさんが独自のうさぎおみくじを制作(ゴールデンのうさぎ、とか)、参賀者は結果に一喜一憂していました。 Mさんの病院にも正月の挨拶にいきました。 入院してからしばらく後は、手足や顔がむくんで、手はグローブをはめたみたいになっていました。そのむくみはとれて、むしろげっそりと痩せていました。第一声は「まいったなぁ」。これは毎度のこと。点滴だけで、食事は食べさせてもらってないらしい。しかし、前回の入院の時のようにそれを強く訴えるという風でもなく、あきらめた感じでした。年末の格闘技の話しから、若い時に空手をやっていた話しをききました。3段だったというから、けっこう強い。基の体が丈夫だったのでは、と思ってはいたのですが、予想はあたっていたようです。前回の入院の時は、気功でむくみを治したと言っていました。缶コーヒーを2本お使いに行って、20分くらいで帰った。 (Mさんのエピソード) Mさんが、病院から「退院したー退院させられた」のは12月7日。園道からテント村に入っていく姿が、目の端に映った。半ばよろけるように、自分のテント(のあった場所)にめがけて斜面を下る。ぼくは、あわてて追いかけた。脇に抱えた段ボールをひいて、木の根本に崩れるように座り込んだ。目の前には、トラロープで囲まれた更地。 病院から昼前に出たMさんは、歩いて区役所に向かい、福祉事務所に顔を出してから、テント村までやってきた。直線距離にして3キロ弱。それを3、4時間かけて歩いてきたことになる。(途中の横断歩道で人とぶつかって尻餅をつき、30分ほど休息したらしいが。)。しかし、数日前に病院では車イスだったし、2週間も点滴をつながれて安静していたことを考えれば、それだけ歩けること自体が奇跡的なことではないだろうか。 「事務所に挨拶にきた」「ここに泊まるつもりできたわけではない。」といって、世話になったからとぼくに2千円を渡そうとする。 隣のテントの人(この人も古い)ところに行く。大豆さんは「なに、、出てきてしまったのか。医者のいうことを聞かないとだめだよ。囚われの身なんだから。」と叱咤する。「頑固だなぁ、、いつからそんなに頑固になったの。こんなところで一人で暮らしているとダメだなぁ。」と嘆息をつく。Mさんは、病院では食事を出してくれない、インターンみたいな若い女が内視鏡で手術をして事故をした、、などという。しかし、「あんた専門家か、ちがうだろ、医者のいうこと聞かなきゃダメだよ。若いうちはいいよ、好きに生きて。でも、体が動かなくなったらそうはいかないぞ。」などと言われているうちに、沈んでくる。太陽も沈もうとしている。とりあえず、テントを建てることにして、ぼくの余っている一人用のテントを組み立てる。Mさんは、立ち去ろうとする。大豆さんが、Mさんのそでを引っ張って「ほら、テント建ててくれてるんじゃないか。そこに座ってろ。」と強引に連れてくる。Mさんは、再び木の根本に座っている。だいぶ、しょんぼりしている。Iさんと大豆さんとぼくとで、テントをつくり、大豆さんが寝袋をMさんに貸していた。 ぼくは、強引な感じになったのは失敗したな、と思った。しかし、あのまま帰しても良かったのかどうかは分からなかった。次の日は、特別清掃だったので、テントについて事務所との交渉をどうすればいいのか、そもそもMさんの今後はどうしたらいいのか、そんなことをその夜は考えていた。 # by isourou1 | 2011-01-15 21:46
Mさんをめぐっては、この間色々とあった。
Mさんが病院を自主的に退院してから、今日(12月19日)までの2週間の出来事を何回かに分けて書きたいと思う。 今日の朝7時半に、ぼくのテントにケンさんがやってきて「ISOさんいる?寝ているところ悪いんだけど」という声がした。もちろんぼくは、いつも寝ている時間だ。昨日は訳あって4時頃ねたから眠い。ただ、いつもぼくが朝遅いことを知っている(そして遠慮ぶかいところもある)ケンさんがくるのは、急な用事にはちがいない。「中川さんに、Mさんが「もう限界だ」と言ったそうなんだ。なので、中川さんが事務所を通して福祉に連絡するといっているんだ。ISOさんの耳にも入れておこうと思って。」。なるほど、大変だ。ぼくは、起き出して、Mさんのテントに向かった。 Mさんのテントは以前書いたとおり、特別清掃の時に解体されたが、Mさんが戻ってきたために再建したものだ。再建したといっても、2人用の小さなテントだが、新規でテントを張ることを規制されているテント村では特例中の特例ではある。 「Mさん。ISOです。具合どうですか?」と声をかけると「うん、よくないな。」という返事。声はしっかりしている。テントのチャックが開いて、Mさんが顔をのぞかせる。血の気が薄く、少しむくんでいる。「歩けないな。足の治療をしなかったんだな。」という。「足は治療はしないだろうね。昨日はコンビニ行った?」と聞くと「いや、行かなかった。どうしてだろうな。ほかは何ともないんだ。」「痛いところとかはないの。」「ない。」お湯を沸かして、目の前には、巻きずしがある。つまる(閉塞)から、食べるのは難しいと言われていたが、ちゃんと食事はしている。「薬を飲み過ぎみたいだ。」と言って、大正漢方胃腸薬、救心、バファリンを見せる。「少し頭が痛い時に、バファリンを飲んだら、調子が悪くなった。」「うん、飲み過ぎはよくないよ。で、入院は山上病院でいいの。」Mさんは、山上病院を嫌がり、渋谷以外の福祉にかかりたがっていたこともあった。「いい。渋谷なら、山上だろ。広尾病院になればいいけど。」「入院はするの?」「入院する。手術もうける。薬も飲む。全部やる。もう2ヶ月くらいしかもたないだろ。1ヶ月かもしれない。」歩けなくなって覚悟を決めたというかあきらめてしまったというか、とにかく自分で決めた。自分で納得しないと梃子でも動かない人だ。むしろ、ぼくの方には心残りがある。もう少し、テント村にいることはできるような手助けは出来なかったのか、という。ここ数日は、ぼく自身の体調が悪く、あまり長くMさんと話すこともなかったのも残念だ。「テントはどうする?」ときくと「ケンさんが代わりに入れないか」という。たぶんそれは無理だろう。テントは、来月の特別清掃まではとっておいてもらうというお願いをすることになった。ゆっくりと荷物の整理をしている。カップラーメン、インスタントラーメン、みかんなどを袋にいれて「これはもういらないから」とぼくに渡した。 中川さんのテントを訪れる。中川さんも、30年選手だが、テントは極小さい。寝るだけの大きさだ。「もう、限界だ、というんだ。歩けなくなったのが、こたえたんじゃないか。仕方ないよな。」中川さんも、なんとなく残念そうだ。病院が嫌いなMさんの気持ちが、わかるのだろう。「やっぱりモルモットみたいになっちゃいますよね。」とぼく。「そうだよね、われわれで実験するほかないもんな。」と中川さん。ホームレスの人は、福祉で病院に入っても、そういう不安が付きまとう。おそらく、それは半面は真実だとぼくは思う。事務所には、8時半ころ一緒にいくことにした。 実は、朝のテント村というのは、ぼくは寝ているのでほとんど知らない。朝、中川さんと事務所に向かう時にみてみると、多くの人は起きていて、空き缶を運んでくるところに出会ったりする。朝早くから働いていた。ケンさんが「今日、道の端で缶をつぶしてたらね、タクシーから運転手が降りてきてね、いやだなーと思ったんだよ。10中8、9嫌なこと言われるからね。個人タクシーのものですが、吸いますか?ってタバコ差し出すんだよ。吸わないからって断ったけど、そうしたら、働いている姿見るのが好きなんだ、というんだよ。はじめて、働いているって認められたと思ってね。うれしくなった。」と朝、少し恥ずかしげに言っていた。夜出歩いている人が多いのである。朝はまだ起きていてこれから寝る人もいる。中川さんも、夜歩いている。病院の話をしながら、事務所に向かう。山上病院は、多くの福祉の患者を受け入れているが、あまりいい評判はきかない。事務所には、管理職が休みでいなかったが、区の福祉へと連絡をしてくれるように頼んだ。 テントに戻り、胃ガンについてのおさらいをしていると、管理事務所の人たちが歩いているのが見えた。福祉の田村さんの姿も見えた。電話を受けてすぐにきたらしい。 Mさんのテントへ行くと、テントの中は整理がついている。田村さんが「食べれなかったのでしょ。」ときくと「食べれました。ただ足がだるくて歩けないんだな。足の治療はしなかったんだな。」とMさん。ぼくは、ゴミを捨てた。医者は、診察だけしてから考えると言っているらしい。Mさんは立つのも難しかった。事務所から持ってきた車イスに時間をかけてのる。「自分のペースでいいから。」とぼく。大勢の人間に囲まれて、いい気分ではないだろう。遠くから、こっちを心配そうにKさんが見ている。それぞれが自分に重ねるところがあるだろう。Mさんのテントは傾斜地に立っているから、車イスの前輪をウィリーのように持ち上げて移動する。誰もやらなそうなので、ぼくが押す。Mさんの隣のテントのダイズさんと会う。「わがままいっちゃだめだぞ。医者のいうこと聞いて。」とダイズさん。「ああ、そういってもらえると助かります。」と田村さん。Mさんは「お世話になりました。」。病院まではすぐである。病院の待合室では、Mさんはうつらうつらしている。暖かいところにきたから眠くなったのだろう。夜は寒かったと言っていた。湿気で濡れて冷たいと言っていたが、それは失禁のためのようだった。前に、おむつを区役所からもらってテントに持っていったら「いらない」と言われた。ぼくは、田村さんとホスピスの利用が出来ないかを話したりしていた。院長がいないようで、女の先生が部屋で待っていた。詳しい説明みたいのがあるのかと期待したが、「森さんかぁ。大丈夫だったの。どうしたの。」と大きな声で言った。「歩けなくなりました。」Mさんは下を向いている。もし、地面があったら、枝をいじっているところだろう。「食べてたの?」「はい、食べてました。」。横からぼくが「コンビニに行っておにぎりとか買って食べてたんだよね。」という。「むくんでいるわね。吸収はされてないわね。で、どうしたいの?。」「入院します。」下を向いたままだ。田村さんはぼくにこっそりとオッケーマークを指で送ってくる。ぼくは、なんだかそれに応える気分ではない。「じゃあ、手術は?」「手術もします。」「おーし!」と女医が吠えた。「わかった!」。なんだか気合いで話しが決まった感じだ。そんなものかもしれない。「入院っていっても、すぐに気が変わったりするからなぁ」と違う看護婦がいっている。しかし、すぐに入院の手続きと、手術を予定していた大病院へと電話している。レントゲンや心電図などの検査にすぐにMさんは入ることになった。ぼくは、残って女医さんに、治療についていくつかの質問をした。抗ガン剤を嫌がっていることをいったら「医者は、放っておくことができなくて何かしてしまう人種だから。でもバイパス手術受けて食べられるようになったら、それだけで抗がん剤はのまない、ということを許容するくらいであってほしいと思っていますけど。」と言った。 レントゲンを終え、心電図を待っているMさんからはすえたような臭いがしている。そして、車イスの下に公園の枯れ葉が一枚落ちていた。
マリア(仮名)という謎の人がいる。
いきなり電話がかかってきて、「難民の支援をしているのですが、食べ物が余ったので取りにきてもらえませんか?」と言われた。奇妙に甲高い声だ。会ったことない人だけど、とりあえず出かけてみることにした。好奇心もあった。全身ピンクなので、すぐに分かると思います。と電話で言っていたが、、、。待ち合わせ場所で声をかけてきたのは、たしかにほぼ全身がピンク系の服でつつまれた中年のやや痩せた女性だった。東南アジア風の顔立ちだ。手渡されたのは、炊いた白米4合くらいと、ペットボトルのお茶数本、あとは唐揚げなどだった。何かの会の残りだという。夫に知られないように活動している、といって帰宅時間があるらしく急いた様子だった。ペットボトルのお茶は重いので、駅近くで段ボールで暮らしている知人に渡し、あとは持って帰った。お米はそうでもなかったが、その他のものは、少し変わった味だった。香水の味といってもぼく自身よく分からないが、過去にも中年婦人からもらった料理で同様な味がした。これは、あらゆる調味料とも結びつかない不思議な味覚で、想像では香水の成分が固着して変化したものと考えているのだが、、。ぼくは、苦手なのだった。 なんとなくマリアさん自身、生活は苦しそうというか、路上で生活していても不思議ではない感じであった。 そのマリアさんから、再び電話があり、ラーメンをたくさんもらったから、受け取ってほしいと言われた。声が甲高いから第一声で分かる。いつものように時間がないらしく、公園の近くの役所の前までブツを取りに行った。全身ピンクではなかったが、そんなような感じの服装で、交差点の対岸にたっていても一目で見つかる。思ったより量が多かった。インスタントラーメンで、150食くらいあった。マリアさんはすぐに帰っていったので、それを一人で運ぶのはきつく、途中からテント村のケンさんに自転車で助っ人にきてもらった。 ラーメンは、シンガポールやインドネシアの現地向けのものだった。カレー味や、トマト味、それにおそらくはイスラム教徒向けの動物性を含まないもの、などであった。 ぼく自身、一時インスタントラーメンを食べることにはまったが、今は興味がなく、テント村の人や、遊びにくる人にあげていた。 しかし!!これがえらく評判が悪い。誰にきいても、まずいという。それを聞いて、ぼくはますます食べる気をなくした。 添付されたスープがまずいから使わなかったという人もいる、スープだけでなく麺もまずいという人もいた。麺も変わった味がするという。パクチーの味がして嫌だという意見もあった。元テント村の山男ですら、あれは食えなかったよ。誰に聞いても顔をしかめるのである。ぼくのテントの近くに、同年代(少し上)だけど、夏は半ズボンで髭をぼうぼうにはやし、とにかくこだわらないという感じで冬など風が入ってくるようなテントに住んでいる男がいて、ほとんど誰とも口をきかない。ぼくは挨拶くらいはする。陰では、原始人といわれたり、ヒゲと呼ばれたりする。食べ物は拾っている。極めている感じがあって、実際よく見るとイケメンである。かっこいい感じでもある。彼に、箱ごと(20個くらい)まとめてラーメンをあげた。 それが、となりのKさんが、ヒゲからラーメンをもらったと言ってぼくに嘆いた。「彼から物をもらうようになったら、終わりだと思ったわ。」。これほど左様に、このラーメン、人気がない。 今日、特別清掃を終えて、団らんしているケンさんとエビさんの会話を聞いていたら、なんとケンさんがこのラーメンを「抜群にうまい。」と言った。エビハラさんは「そんなことはないだろ。あんたは、麺だけであとは醤油かけて食べるだけだから。そんな食べ方で味など分かるか。」という。ケンさんは「醤油は優れた調味料だよ。ほかはいらない。」。ケンさんは、どんなインスタントラーメンでもスープの粉末は使わず、生醤油一本である。エビハラさんは「それに麺だって、言っちゃ悪いけど、酸化した味がするよ。臭いも変だ。たぶん賞味期限が切れているんだよ。」という。ぼくは「え、そうなの。」と驚くとエビハラさんが「袋に書いてはないけど、1ヶ月くらいならいいけど、前に3年すぎたラーメン食べたら同じ味がした。」。ぼくは、「そうか、それなら、人にあげられないな。ケンさんいる?」ときくと「いるいる。抜群にうまいもん。」と再び賞賛した。 ぼくが、残ったラーメンを全部箱ごとケンさんに渡した。ケンさんは、うれしそうに「気が変わらないうちに閉まっておこう」とどこぞへと運んでいた。エビハラさんが「気が変わるわけない。」と後ろでつぶやいた。 結局、一袋も食べなかったが、ぼくは、ラーメンの味とマリアさんから以前もらった総菜の不思議な味には関係があるような気がしている。
ぼくがテント村に住み初めて、8年目になる。毎年誕生日をテント村で祝っているから、ここでの誕生日会は8回目ということになる。
なぜだか、一番はじめの年の誕生日会は、よく覚えている。たき火が、どんどんと燃え、それを囲んで大勢の人がいた。ひどく個性的なテント村の住人たちも、大勢集まると互いに相殺されて、なんだかちょうどいいバランスが生まれるようだった。たまに、テントを訪ねてくる京都の友人が、偶然誕生日に来た。彼は、山で一人で暮らしたりするような野生児で、それも人恋しいからその結果山で一人で暮らすような葛藤を抱えた男だけど、たき火をいじる彼は、その場にぴったりだった。村長みたいだった人が「自分の城だから、それぞれのスタイルで生活すればいい。」みたいなことを言った気がする。近くのテントの全身タトゥの入った巨漢のブラジル人が、どこからかナンをたくさん買ってきてくれた。常に体を踊らせているヒーリングをしていると称するスキンヘッドの男がやってきて(とても不安そうにみえた)、ぼくのテントの近くに枯れ葉を集めて住みだしたのも、その晩からだった。とても大勢の人がきたようだったが、40人くらいだったのだろうか。最後に残った人たちが(それでも20人くらいいたようだったが、、)、空にしたテントにぎゅうぎゅうに入りこんで、それぞれが一芸をした。近くの小屋のキクチさんという女の人が、ハスキーな声で、シャンソンか何か歌ったのがムードがあった。あの誕生日会をなんでこんなに覚えているのか、たぶんテント村でやったイベントとして初めてのものだったからかもしれない。様々な人が、一つの場所に集まる時の輝きみたいなもの、なにがそこから生まれるわけでもないが、その場が奇跡的なバランスと平安で充足している感じが、刻印されている。 そして、今年は40歳の誕生日でもあった。だから、40年の総括、と題する講演会をすることにした。14時くらいから始めるはずだったが、11時には千年さんがやってきて、イスやテーブルを並べてしまった。だから、別に人がやってくるでもなしに、千年さんとおしゃべりをしているうちに、時間は過ぎていった。4、5人集まった段階では、男ばかりだった。白髪の話になる。「頭に白髪ある?」。「白髪はあんまりないけど、陰毛に白髪増えてきた。あっちは、もう70歳くらいかな。」とぼく。「ガハハ、こないだあそこの白いのを抜いたよ。痛かったよ。間違って黒かったりして。元気だけどよ。ガハハ。」と千年さん。「抜いた方がいいの。最近、鼻毛に白髪が増えてきて。」と知人。「まゆげは白髪にならないよね。」と別の人。「ああ、まゆげはならないみたいだ。」と千年さん。つくづくと千年さんの顔を見ると、頭はごま塩だが、まゆげは黒い。なるほど。 懐かしい顔がやってきた。元テント村のマドンナというか、看板であった、みっちゃん。デヘヘヘヘ、という笑いは変わらない。 「どう、わたし太った?太ってない?」という挨拶も変わらない。相変わらず、最高だ。ふと後ろを見ると、輪からはずれた近くの木の根に大きな体でしゃがみこんで、こちらをみてぶつぶついいながら笑っている。猫みたいな絶妙な距離感。みっちゃんが「ハカセが死んだんだよ。電話通じないんだよ。坂がそう言ったんだよ。105号だよ。」「105号って?」「105号だよ、死んだだよ。」「電話通じないから死んだとは限らないと思うけど。」「いや、死んだんだよ。坂がそう言ったんだよ。105号だよ。」。何が、105号なのかはよくわからなかったが、ハカセが死んだというのはありえることだ。脳溢血で倒れて近くの病院に入院していたことがある。その時、パジャマ姿でベットを抜け出して、テント村(エノアール)に遊びにきた。禁止されている煙草をうまそうに吸っていた。言葉はそれほどうまく口から出ないようだった。病院は退院したのだけど、もう1年くらいは連絡がとれない。みっちゃんをつれてきた西さんも、ハカセに電話して、通話できないことを改めて確認している。西さんは、今は生活保護でアパートに暮らしている。「毎日、何をしているんですか。」「うーん、何にもしてないね。最近、地デジにしたんよ。たくさんチャンネルあるんよ。それを見てる。つまらんね、こんな人生。」と情けなさそうに笑った。「行くところがどこもないんよ。」。 人が10人くらいになったところで、似顔絵を描いてもらう。これは毎年やっていることだ。5歳から55歳くらいの人が描いた自分の顔。40歳の顔。 それから、40年の総括、を話した。20人くらいの人が聞いていた。しかし、何も考えていなかった。いや、考えようとはしたのだけど、あんまり思い浮かぶこともなかったのだ。それで、そんなことを言った後、質問やヤジをとばされながら、それでも30分以上(1時間くらい?)話していた。それぞれの人(そこには、ぼくと長く関わってくれている人もいた)の見方と、ぼく自身のぼくへの見方。結果としては、けっこうおもしろかったのではないかと思う、ぼくの話は。いつも辛口のIさんからも、ほめられたので。こんなイベントは、誕生日以外ではあんまり考えられない。 それから、ケーキ。Iさんの手作りケーキ。千年さんの買ってきたケーキ。文芸部で一緒にやっている宮さんの手作りケーキ。上さんの手作りチーズケーキ。(不惑なら迷わず、迷わないためには地図が必要。だからチーズケーキ、とのこと)。いつもエノアールにきてくれる遠藤夫妻のベジタブルケーキ。ちょうどウクレレで歌を歌う魚さんがやってきて、ハッピバースディの歌の演奏してくれた。ケーキだけで、腹がふくれた。もう、日が暮れた。それから、なぜか(こんなことはいつもしない)ぼくに贈る言葉プラス一芸大会。一芸は、産まれたばかりの子牛の脚、政治的ミニスカ党の演説、天皇の真似、ぼくがテント村にやってきた時の再現朗読、歌や踊り、などなど。 贈る言葉は、ほめられてくすぐったい感じだったが、昔からの友人のO君が「なんで称賛しないといけないの!」と鋭くつっこむ。「誕生日だからだよ」とぼく。「あ、そうか」とO君。 それから闇鍋をして、終わったのが夜11時。雲が出たせいか全く寒くない夜だった。 ![]()
28日の夜にあった、襲撃、の話は前回に書いた。その話は、ぼくのまわりのテントの人を含め、複数にしていた。
テントの中で夕食をIさんと食べようとしていると、となりのテントの女性のKさんが、「ちょっと、いる?」と言ってやってきた。「中学生3人がテント村から出てきて、私の顔を見て、まずい、と思ったんじゃないの。逃げていくのよ。門の外まで行ってみたら、また、石垣上って柵を越えようとしているの。」「裏からテント村に入ろうとしているってこと?」「そう、またやるわよ、あの子たち。」 ぼくとIさんは、すぐに表に出た。ぼくは、デジカメとヘッドライトを持ってでた。バン、バン、とテントに石が当たるらしい音がする。Iさんが駈けだした。ぼくも、テント村の端に入っていった。ガサガサという音がする。ぼくはヘッドライトをつけた。光の輪のなかに、学制服の3人の走る姿が浮かび上がった。「待てーー」とIさん。「ふざけるなぁ!」と連呼しながらぼくも追いかける。坂の途中で一人が転んだが、すぐに起きて駆け出す。公園の門を出て、道路を横断し、なおも逃げていく。Iさんが「その人たちを捕まえてください!」と叫びながら走っている。それはいい、とぼくも走りながら思い「捕まえてください!」「待て!」と叫びながら走る。全速力である。彼らは細い脇道に入った。相当土地勘がある。その路地で立ち話をしていたお兄さんが、ぼくらの声を聞いて、3人を追いかけだしてくれた。ぼくに「一人はそっち」と指さしてくれる。家と家の細い通路の小さな門をまたぎ越えている学生服がいるので、すぐにそれを追いかける。線路際の路地を逃げていく。もう一人が、駐車場のフェンスをよじ登って、同じ線路際の路地に逃げ込んでくる。すぐあとを、さきほどのお兄さんがフェンスを越えて追いかける。ぼくが追いかけていた人とフェンスを越えた人は合流して逃げていくが、お兄さんの足が早く、追いつかれて呼び止められたのだろうか、あきらめたように立ち止まったところで、ぼくも追いついた。全員、息が荒い。こんなに真剣に走ったのは、何年ぶりのことか。 「君たち石を投げたよね。」 とぼくが質問。答えないので重ねて、同じ質問をすると 「投げました」 と体の大きい方(A)が答えた。 小さい方(B)も 「投げました」と答えた。 そこで、追いかけてくれたお兄さんに簡単に「ホームレスのテントに石を投げたので、追いかけたのです。」と説明した。荒い息で「ああ、そうですか」とお兄さん。「ありがとうございます。」とぼくがいうと、お兄さんは「じゃあ、これで」と戻っていった。 「どんな気持ちで石を投げたのか言ってみて。それを教えてくれる。」とぼく。 小さい方が肩を持ち上げて泣き出しそうになるのを我慢しながら、答えた。 「のって、やりました。」 「誘われて、嫌嫌やったということ?」 「嫌嫌ではないけど、、、話にのって、やりました。」 「あなたは?」 とAに聞くと、 「面白半分にやりました。」 とあまり悪びれた様もなく言う。 「あなた方は、面白半分かもしれないけど、投げられる方は怖いんだ。ぼくだって、怖いと思うし、とても嫌なことだ。テントに住んでいる人には、年をとった人も女性もいる。そういう人は、もっと怖いだろうし、嫌だろう。ぎりぎりの気持ちで生きている人もいる、そういう人に石を投げることがどういうことか分かるか。」 Bは泣きべそをかきながら 「すいませんでした。」 と言っている。Aは黙っている。ぼくは、二人と制服のボタンを撮影した。二人は同学年だろうが、随分と背がちがう。AはBの1、5倍くらいある。中学生とはこんなものだったかな、と思う。Iさんから電話がかかってきた。 「今どこいる?」 「線路際の路地に、2人と一緒にいるよ。」 「ああ、私も近くにいる。」 「じゃあ、合流しようか。」 2人を連れて歩いていく後ろでBが「馬鹿なことをしちゃった、、」と小声でつぶやいている。駐車場のフェンスの向こうに、立っているIさんとその前にかがんでいるCが見えた。踏切で待ち合わせる。3人が並ぶと、CもBと同様の小ささでAだけが大きい。 Iさんが、 「何回目?」 と聞く。 Aが「はじめてです。」と答えたようだったが、Bが「2回目です。」と答えた。Cも「2回目です。」と答えた。 Iさんが「一回目は何をしたの?」ときくと Cが「探検しただけです。」 Iさんが 「堂々と昼間くればいいでしょ。」 ぼくが 「昼にくれば話くらいするよ。」という。 Bが「すいませんでした。次は堂々と、、というか昼間に行くようにします。どうもすいません。」と頭をさげた。Cも謝った。たぶんAも謝った。 Iさんが「絶対許さないからね。何回でも謝ればいいよ。でも、絶対許さないから。あなたたちの家に石投げられたらどうなの。嫌でしょ。」 3人は、「はい」と言っている。 ぼくが「どこの学校なの?」 と聞くとAが「さっき撮っていた(ボタンのことか)でしょ」という。 Iさんが 「ちゃんといいなさいよ。」 というと Aが「***」と略称で答えた。聞き返すとBが正式名称を答えた。 ぼくが 「どうするの?」 と3人にきくと Bが「あやまりに行きたいです。」と答えた。 ぼくが「じゃあ、今行く?。」 と聞くとBが「昼に行った方がいいですか?」と聞き返した。 ぼくは、「なるべく、すぐに謝った方がいいよ。投げた場所は分かるの?」 と聞く。Aが「分からない」と答えた。しかし、Bが「分かります」と答えた。 「じゃあ、行こうか。」 とぼくは言って3人の顔を見た。 「怒る人がいるかもしれないけど、心構えは大丈夫?」 と聞くと、それぞれうなづいたようだった。 Iさんが歩きながら、学年を聞いていた。中学2年だという。先ほど走り出た門を通過し、テント村に向かう道を歩いていく。テント村に近づくとあたりは暗くなってくる。3人は黙って歩いている。ぼくらも無言である。テント村に入った。「どこだか分かる?」ときくと、うーん。Iさんが「全世界のホームレスに謝れ、全員に謝れ。」という。「 ここです。」と入り口近くのテントを指さす。「自分で声をかけて。」。 か細い声で「すいません。」数度くりかえす。出てこない。留守のようだ。「ほかは?」というとCが「ここから奥はやってません。ここだけです。」という。ぼくが、「一回目は?」ときくと、「え、今日のことですか、、探検しただけです。」と答えた。 どうも、一回目というのが、今日の出来事として、一昨日の襲撃については言葉を濁していたようである。また、今日石を投げたのもこの1つだけだったのかは怪しい。 ぼくは、 「きみたちの姿をみて、きみたちのことを気にしている人がいるから、そこに行ってみようか。」 という。3人は「はい」という。 テントの場所を特定されないために、Iさんが、3人に道で待つように言った。ぼくは、Kさんのテントに「こんばんは。」と声をかけた。 「なに?」 「襲撃していた中学生を捕まえたんだけど」 「え、捕まえたの。」 「よかったら、彼らにはなしてみてよ。どういう気持ちになるかを。」 「うん、向こうにいた時散々やられたからね。でも、仕返しが怖いわね。顔見られているからね。最近は小学生だって怖いから。」 「道で待たせているから、テントの場所は分からないと思うよ。あと、謝まりたいといっている。」 「そう、、分かった。誰かほかにいるの。男の人とか。こういう時は、Eさんとかいいのよね。大きくて。」 「Iさんはいるよ。」 「分かった、話すわ。待ってて。」 Kさんが、テントから出てきた。3人とIさんのところに戻る。外灯の逆光で顔が判然としないので、「ライトを当てるよ。」と3人の顔を一瞬照らした。3人謝る。 Kさんが、一息置いて話し出す。「いい子なんでしょ、、、でも、怖いんだよ。テントにいて石投げられると。金属的な音で。ちょうどドラム缶の中にいて、まわりを棒で叩かれるようなものなの。分かる?。ノイローゼになってしまう人もいるの。あと、警察に行ったら事件になっちゃうんだよ。そういうことなんだよ。両親がいるんでしょ。悲しむよ。」 3人かしこまって聞いている。 「こういうところに住んでいる人は、みんないい人なの。バンバンと鉄砲で打ち合っている子供たちと前話した時、木のある方に向かって撃ちます、テントには撃ちませんって言っていたよ。ここの人は、やっとの思いで生きている人たちなんだから。やっつけるんなら悪い人に石を投げて。」 Bが「悪い人に投げます。」と答える。 「あなたたちだって、もしかしたら、このお兄さんくらいの年齢になったらテントを建てて住むことになるかもしれない。そういう時に石を投げられてごらんなさい。こういうことをすると、必ず、自分に返ってくるんだよ。投げた石が自分に返ってくるんだよ。分かったら、まっすぐ帰りなさい。お母さんとかお父さんが待っているんでしょ。」 Bが「最低のことをしました。すいません。」と答える。 Iさんが 「また昼間にくるといいよ。全員、謝りにきなさい。」 という。 Bが「いつくればいいですか?。」と聞く。 Iさんが「土日でいいよ。学校が休みの時にきなさい。土日の午後とか。」という。 ぼくが「今日はもう遅くなったから、帰りなさい。」という。 Cが「お騒がせしました。」という。それは、言葉が少し違うと思うが、3人の後ろ姿が遠のいていくのを、ぼくら3人も立って見送る。何事かを話している。Iさんが「反省なんかしてないよ。」という。Kさんも「しない、しない」という。Iさんが「謝りなれてる感じだったね。大人に対して。」という。お疲れさま、と言い合って、ぼくとIさんは、冷めてしまった夕飯を食べた。 ご飯たべながら、Iさんから聞いたところによると、一昨日の襲撃はやはり、彼らだったようだ。ぼくがKさんを呼びに行っている時に、ぼくのテントに石を投げたことを認めたという。しかし、エアガンを撃ったことは、ごまかしていたらしい。 もしも、ぼくのテントを襲撃したのが彼らであることをはっきり認識していたら、ぼくの彼らに対する態度ももっと硬くなっていただろう。 彼らがホームレスに関わらなければ、彼らがどんな人間になろうと知ったことではない、とも思う。その一方で、それでもなお、彼らが、これを機会に、どんな下らないことも道を踏み外したと言われることもしてもいいが、立場が弱いと定めたものに対してそれ故に石を投げることは最低の倫理なんだということを理解してもらいたいと思う。 # by isourou1 | 2010-12-06 22:57
今日もいい天気だった。
この一ヶ月ほどのエノアール(テント前でやっている物物交換カフェ)は、ある演劇の公演のコースの中に入っていて、多くの客が訪ねてきた。この演劇の簡単な説明をすると、都内各所にある避難所みたいな場所を観客が訪ねる、という内容で、その一つとしてこの公園が選ばれ、そのコースの中に、エノアールが入っていた。多い時は、20人くらいが一日に訪れた。毎週1回開いている「絵をかく会」も同様である。来る人は、演劇に参加するという気持ちはあるが、どこに行くことになるのかはあらかじめ知らされず、地図を頼りにここにたどり着く。だから、たいていは戸惑いながらも、その状況を楽しむという感じになる。この場に除除に慣れていくというおそるおそるな感じでもある。そして、そのような人の方が、いつもくる人より多数であり、作品というものの構造上、観客という立場を離れにくいこともあり、そこでの雰囲気はいつもとはちがうものになっていた。いつも絵をかく会にきていたおじさんは、「新しい人が多くて落ち着かないので、もう絵を描かないよ」と言っていた。ぼくとしては、新しい人がたくさんくるのは、それはそれとしてけっこう楽しめたのであるが。 演劇のプロジェクトが終わって、はじめてのエノアール。先週までの人出が嘘のように、昼から15時くらいまでは、ぼくと前述の絵をかくおじさん、千年さん、だけ。あ、炊き出しまでは、路上の人であるドカさんもいました。ずっと、話しをしながら、ぼくはゴロゴロ地面でしていた。となりのおじさんから、竹ほうきを借りて、落葉を掃いたり。(この時期、一気に葉を落とす) 自転車で、近くの公園にテントを作っているイサさんがきた。カレーの炊き出しのついてで寄ったのである。そして、つまらないダジャレを連発する。例えば、千年さんの指が乾燥でひび割れしているのを見て「乾燥の感想は痛い」、こんにゃくゼリーを凍らせて喉につまって「こんにゃろー」、など。それから、超常連のキタさんがやってきて、怒濤のように話し出す。となりのKさんが顔をだして「ああ、懐かしい顔ぶれ。ほっとするね。最近、新しい人ばかりだったでしょ。同年代だし。」と話しにくる。ここしばらくやってきてなかったコヤさんがやってきて、商売が軌道に乗った話しをする。コヤさんの姿をみて、テント村のケンさんやエビさんもやってきた。 交わされる好き勝手な話し、だじゃれ、少しだけ千年さんがエロ話、Kさんの苦労話、そして、緩い笑い。 うーん、よくも悪くもまるで少し前のエノアールの状況である。テント村の人、元テント村の人、そして常連、という構成。なんか場として機能しているな、という感じ。ずっとこれだと、それもどうも外からの刺激も欲しくなるのだけど。秋の一日、久しぶりに駄目でもどっこい生きているというエノアールの感じを満喫した。
すいません、、というか、あまりに宣伝のコメント、トラックバックが多いので、消す作業がおいつかず、とりあえず禁止させていただきました。
もし、コメントやトラックバックなどをしたい場合はisourou@hotmail.comまでメールをいただけると幸いです。 ご理解、ご協力おねがいします。 # by isourou1 | 2010-11-29 20:57
襲撃
テント村に暮らしだして、幸いなことに、今まで「襲撃」を受けたことがなかった。それらしい、集団が走り去っていくのを見たことはあったが。 日がくれて19時近くになっていた。 ぼくは、テントの中でライトの明かりで書き物をしていた。外が騒がしいと思っていると(園道から10Mくらいしか離れていないのでそんなに珍しいことではない。)、いきなりババババババという銃弾の音と、それに続いてテントに石があたる音がした。そして、口々に何やら叫びながら立ち去っていく足音がした。銃の音には、身が寒くなる感じがしたが、それほどこちらに向かってくる雰囲気もなかったので、嫌な気分で、作業を続けた。 数分後に、再び、外で騒がしい声がした。「家がないのか!」とか「ホームレス」などと言っているようだった。どんな奴らか確認してやろうと、ぼくは、ライトを手にテントの外に出た。当然腹も立っていた。ぼくのライトを認めて、彼らは「ワァー」と歓声をあげて走り去っていく。学ラン姿の7、8人のグループだった。1人、2人は自転車に乗っている。中学生だろうか。こちらの様子を伺うように、50m先くらいで立ち止まっている。そこに、ちょうど友人がテントに訪ねるために歩いてきた。「襲撃にあった」というと「えっ」と驚いていた。二人でグループを追うことにした。ぼくたちと一定の距離間をもって、彼らも移動する。随分と体の大きさがちがう。全員5分刈。運動部なのだろうか。「こういう時どうすればいいんでしょうかね」と友人。「説教じゃん。なんでやったのか聞いたり。」とぼく。「何にも考えてないだろうなぁ」と友人。公園の門から外に出たところで、彼らの一部が公園の石垣を上っていた。後で考えると、石垣の上からテント村に向けて石でも投げようとしていたのだろう。ぼくらの姿を見ると、あわてて逃げていった。ぼくらは急ぎ足で、ただ彼らの後を追いかけていった。線路の踏切では、相手は向こう側にいて、待っている。なんだか、鬼ごっごでもしている調子である。それもなんとなく嫌な感じだが、構ってほしい、という物ほしい感じもあるようだ。こんな追いかけっこしても無益にはちがいない。相手はここまで追いかけてくるのは意外に思ってはいるだろうが。最終的には、遠くに走り去ろうとするその後ろ姿に「おい、話があるからこい!なにをやったのかわかっているのか!」と怒鳴った。速力を増して彼らは姿を消した。 ぼくと友人は、テント村へと引き返した。高ぶった気持ちが冷めるほどに、嫌な気分だけが残るようだった。 自転車の人もいるところからも、近所の中学生だろう。おそらく、再び、やってくる可能性もエスカレートする可能性もある。ただ、感触として、集団の浅慮のなせる出来心のような気もする。話せば、反省もしそうである。近所の人に警戒と、過剰の反応しないように呼びかけたいところである。 あと、こういう襲撃は世相を反映するところがあると思う。ぼくは、テレビラジオ新聞の類は受容しないので、詳しくはないけど、このごろの朝鮮半島の砲撃などのキナくさい出来事や、中国と日本の島を巡るこれまたキナくさい出来事、などを想起した。バババババという音の後、まずそれを思った。 キナくさい出来事に煽られる世間の一部とホームレスを襲撃するグループの、興奮の暗さには、同じようなところがあるのではないだろうか。やり切れなさを感じる。 *翌日、テント村のぼくの周辺の人に尋ねると、一人は「ああ、バババと音がしたね。戦争ごっこしているのかな、と思った。」。ちがう人は「ああ、音がした。ぼくの隣の人がやられたのかなぁ、と思った。出ようかと思ったけど、最近は小学生でも怖いから。怖いと思って出られなかった。一人で行くのはやめた方がいいよ。耳の聞こえないホームレスが殺されたの知ってる?どうなるか見てみたかったってそんな理由なのよ。なんかパトカーが昨日は止まっているし。それは関係なかったみたいだけど。とにかく怖くて眠れなかったわよ。」。この人は女性である。ちがう人は「そんなことあったの。寄り合いとかやった方がいいんじゃないの。情報交換。そういうこと、一応考えていった方がいいと思うよ。いますぐでなくても。」と意外な提案。襲撃をこの一年で数回受けていたという人もいた。彼のテントは園路にとても近く、たしかにものすごく「趣味がいい」風雅な小屋なので目立つのである。彼は、4、5人のグループで襲撃を受けたという。レンガを投げられて、布を突き抜けて小屋の中に飛び込んできたという。同じグループだかどうだかは分からない。そんなこんなで今日は、6人くらいと襲撃の情報を伝えあった。
月に一度、特別清掃、という儀式がある。
またの名を一斉清掃とも言う。つまりは、一斉にする特別な清掃、、、東京のたいていのテントの集住地では、なんらかの形で行っていることだ。 ある場所では、移動させなければならず、ある場所では見回りにくるだけであり、それぞれに形は異なれども、役人の管理下に住人があることを示すための儀式という点では変わりはないだろう。ぼくの住む村では、今は、月に一回、荷物を出してテントや小屋を畳むという形になっている。管理者によって多少の融通は効くので、誰が責任者になるかで、かなり様相はちがってくる。今年の四月から、管理事務所が、民営化?されて都の外郭団体が請け負うことになったためか多少優しくなってきているようだ。(名称も管理事務所からセービスセンターに変更になった。しかし、誰もそんな名前で呼ぶ人はテント村にいないようである。) さて、昨日もまた、特別清掃があった。先週が雨だったために、延期になっていたのだ。先週は、朝になってから小雨がぱらつきだした。前日の夕方の放送では、特別清掃を実施いたします、と流れていた。こういう場合が一番困る。事務所側が回ってくるのは、9時半なのだが、中には、朝5時から小屋の解体をしている人もいる。テントとちがって、小屋は分解するのも組み立てるのも時間がかかる。しかし、雨が降ると外に出した荷物が濡れたりするので、延期にするのが原則。もう、壊している人がいる一方で、雨が降り出して、本来ならば延期にすべき状況だった。こういう時は、管理側も困るようで、テント村に相談にくる。(全員に意見を聞くわけではない。うるさいことを言いそうな人を選んで声をかけている。)。ぼくは、いつもたいていぎりぎりまで寝ているのだが、係長の呼ぶ声でテントの外にでた。 「ああ、降ってますね、、。」 「isourouさんは、今日はやらない方針?」 「というか、今起きたところだから。」 まわりの人たちも思案顔で表に立っている。 係長が小声で言った。 「もう畳んでいる人もいるんだよね。チェックして来週はなしにするのがベストだと思うんだけど。」 「ああ、それがベストですね。」 ぼくの後も数人に意見を聞いたようであった。放送があり、延期が告げられた。一部から拍手が沸き上がった。しかし、畳んだ人の進退が決まらなければ、ぼくは喜ぶ気にはなれなかった。係長の言葉どおり、畳んだ人はもうそれでやる必要はなし、ということになった。しかし、中には、延期と聞いて小屋を建て直してチェックされなかった人もいた。怪しい天気の時は、はじめから延期にすれば、こんな問題はないのだ。 そして、昨日。よく晴れていた。今年の冬は暖かい。朝から、みんなそれぞれのペースでテントを畳んだり、まわりをほうきで掃いたりしている。特別清掃というのは、やらされるものであり、決して気分のいいものではない。総勢20人くらいの役人や警備員、警察(私服)がやってきて、写真を無断で撮っていくのだから、嫌なものだ。最近は、次回予定の紙をもらうだけのやりとりになっているが、以前はトラブルや口論になる場合があった。(ぼくが、住み始めたころは、多くの人が事務所に従わず小屋を畳まなかった。というか、畳みようもない立派な小屋がたくさんあったのだ。アパートに移行させる都の事業とともに追い出し圧力も高まり、特別清掃時に、事務所が強権的に畳ませたり壊したりしたので、一時期はかなり緊張度が高かった。) あんまり気分はよくないのはたしかだけど、しかし、一方で、この日は、テント村住民が一堂に顔を合わせる機会となっているのも事実である。日常とちがうちょっとした「ハレ」の場なのである。それぞれが、いろいろと作業しながら声高に話している。特に、ぼくのまわりでは、近くにKさんが引っ越してきてから、またにぎやかになってきた。 どこにどのように人が集まっているか、だれとだれが話しているかで、少しずつ、変化するテント村の人間関係が分かる。意外な人同士がつながりがあったりもする。そして、元気な姿をお互い確認する。 しかし、今回は、いつもと少し違うところがあった。2週間前くらいに、病院に救急車で運ばれたMさんのテントを事務所が壊して撤去したのだ。Mさんは、この公園にもっとも古くから住んでいる人とされている。Oさんも古くからいるが「Mさんは古いよ。43年いる。」と言っていた。あんまり当てになりそうにない数字だけど、この公園が始まったのが1960年代の終わりだから、ほぼそのころからいることになる。ぼくのテントからそんなに遠くはなかったのだが、ぼくはほとんど話したことはない。また、近所の人ともほとんど話さない。仲のいい人(アパートに移ったがやはり公園に30年以上住んでいた人)が、今年の春に亡くなって以来、人が訪ねてくることもなさそうだった。病院に入ったのは、となりの人が電話をしたからだ。動けなくなっていたらしい。75くらいになっていたそうだ。救急隊員に話していることを小耳にはさんだ人によると「22年間病院に言ったことはない」と言っていたそうだ。 Mさんは、病院では元気で、その後は福祉にかかることになったそうだ。 テントを壊すのはあっという間だった。 壊している最中に「使えるものは世話になった人に渡してほしい」との本人の言葉を係長が伝えてきた。カセットコンロや、ラジカセなど。隣の電話をかけた人に言いにいくと「いらねぇよ。もっと早くいってくれないと。」。戻ってみるともうすべてを清掃車に積み込んでいた。とりあえず、カセットコンロをぼくが預かることにして、車から降ろしてもらった。テントの下に敷いていたスノコをIさんやKさんがもらった。テントの中には身の回りの品も少なく、しかし、きちんと丁寧に暮らしている様子が伺われた。「ぼくが来る前から、Mさんはいたよ。まだテントなんか作ってなくて夜だけ簡単なシートはったりして寝ていたよ。Oさんも古いな。ここらへんにいたんだ、煮炊きしている煙がよく上がっていたよ。」とNさん。「Oさんは、後からだよ。」とこれまた30年選手のKENさん。こういう昔話をきくのは楽しい。「ああ、そうか。昔は、警察が来たよ。指紋とられてさ。嫌だったよ。番号持たされて写真とられて。俺は10番だったよ。写真とられたことは2回くらいあるな。」「犯罪者扱いですね。」「ひどかったよ。虫けら扱いだよ。」。Nさんは、Mさんの見舞いに行くそうだ。 「Mさんとは、将棋をさしたことがあるよ。15年前に10回くらいやったかな。」とKENさん。「強いんですか?」「うん、あんまり強くない。あなたと一緒くらいだよ。見舞いに行くなら、盤持っていったらいいよ。」 昨日は、もう一軒撤去された。テント村の端に住んでいる人で、ぼくは全く面識がなかった。ヘビのおじさん、と呼ばれていたそうだ。「なんでも、テントの中でヘビを枕に寝ていたっていうのよ。2匹いたって。」。今は、新宿あたりをウロウロしている、という話であるが、詳しいことは何も分からない。 こうして、テントが少しずつ減っていく。路上で寝ているドカさんは「もったない。壊されたら作れないんだから、壊される前にどうにかしないと。貴重なんだから。」とぼくやKENさんに言っていた。たしかにそうだ。 10時くらいに事務所の人たちがチラシを渡して集団で通り過ぎると、12時にはまた元の通りのテント村に戻っている。
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