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朝の7時頃だった。「テツオくんいる!?」との声が物音とともにテントの外から投げかけられた。ぼくが朝10時くらいまで寝ていることが多いのは衆知の話だ。声には、のどかさや朗らかさを含んでいて、どこかで聞き覚えがあるものだったが思い出せなかった。テントの前で手をたたく音がするので、仕方なくテントのチャックを開いて顔を出した。実際以上に眠たげな渋面を浮かべようとしながら。目の前には、ぼくの自転車とたしかに見たことある男が立っていた。「覚えている?」「ああ」曖昧な返事。「一緒にパン食べようよ」。「まだ眠いんだけど」。「丘のところで一緒に食べようよ。自転車かして。パン買ってくるから。コーヒー沸かしてて。丘にきてよ」。と言ってすぐさま姿が消えた。頭の総毛が白くなり、目の下に隈を作って顔色が悪かったが、声のどこか浮き世離れした調子は同じだった。たぶん、5年くらいは会っていなかったはずだ。
ぼくがここに住み始めたころ、ヒッピー的な一群の人たちがテント村にいた。当時、20代から30代くらいが主であったので、エコロジー・スピリチャル・ラスタファリズム・レイブカルチャー・仏教・スローライフ・ドラッグ・自然回帰・オカルトなどが、それぞれの割合で混然となったような、いわゆる管理社会をドロップアウトする青年の類型と偏差を示している観があった。ただ、管理社会への反発が男性性の誇示や保守的なジェンダー指向と素朴に結びついているようなところもあり、古くさい価値観も感じられた。そういうことも含め、ぼくはどことなく違和感を持ってはいたが、端から見れば似たような者であったかもしれない。あと、意外に美男子が多く、ホストクラブができるのではないかと言われていたほどであった。欧米人ぽい顔だちで優しげな彼は、そういう中の一人だった。ジロウさんと呼ぶことにしよう。 普段はおっとりしているジロウさんだが暴れてしまうこともあるようで、精神病院に入れられていたという話を本人から聞いたこともあった。お金持ちの子息らしく、そういう意味での苦労はないようだったが、精神的にしんどそうな時や向精神薬でぼんやりしている感じはあったと思う。ミスターNのヒーリングをよく受けていた。 忘れていたことを少しずつ思い出しながら、お湯を沸かしながらジロウさんが帰ってくるのを待っていた。しかし、1時間以上をすぎてジロウさんは帰ってこなかった。そもそもこんな朝からパン屋は開いていないだろうし、あるいは、ぼくが完全に目覚めるだろう時間までどこかで待っているのかもしれない。一応、丘を見に行ってみると、頂上にキャンプ用の布製のイスがおかれてあり、横に赤い傘がひっくりかえっていて突き出た柄の部分から花飾りのようなものが垂れていた。リュックも放置してあった。イスには、「荷物を置かないでください。撤去します」とのセンターの警告が貼ってあった。すぐに撤去することはないだろうが、このままでは荷物が不用心である。しかし、勝手に移動させるのはどうかと思うし、面倒な気もして放っておいた。 久しぶりにテント村に遊びにきた岩さんと話していると、朝早くからぼくがテント前に座っていることが珍しいのか、普段立ち寄らない人が話しにくる。そのうちに、テント村の絵描きさんであるKWさんが、サムイに下駄ばきで園道からぼくのテントに向かう段差を降りてきた。ぼくは思わず「滑りやすいから注意してください」と言った。実際、靴でもよく転ぶのである。KWさんはこちらをのぞいて、口に指を当てて「シィ」という顔をしてきびすを返した。キャンプ用イスに後ろ向きに座っていた岩さんの姿を認めて立ち去ったようだった。一体、何のことか分からなかったが、謎なことはよくあるので、いちいちは気にしない。 9時過ぎにセンター職員と警備員がまわってくるので、一応、丘の上の荷物を気にして行ってみた。職員に「知り合いの荷物だから。買い物に行ってくると言って出ていったから」と言うと「小川さんの知り合いなの」と少し安心した様子だった。テントに戻る途中でKWさんに会った。 「いえねぇ、寝ている時にですよ、深夜、表の鐘をたたく人がいてね。火をかしてくれって。火っていっても、バーナーですよ。断ったんだけど、明日一緒に飲みましょう、って。誰だか分からないし、14・15年前にテント村に住んでいたっていうんですよ。小川みつお、知っているかと聞かれたから、たぶん小川さんのことだろうと思って知っていると答えたんですがねぇ。それで気がついてみると、折りたたみのイスがなくなっているんですよ。耳は遠いんですけど、感覚は敏感だから部屋に入ってきたら分かるんですよ」「寝ている間になくなったということですか」「そうなんです。朝起きたらないんですよ。ふつうは、気がつくんですけどねぇ、不思議だなと思って。素人じゃないですね。別に、あんなイス、故障を修理してあるようなやつでいらないんですけどねぇ。さっき、小川さんのところに話にいこうとしたら、彼がいたようだから。こんな話しをもちこんで、迷惑になっちゃうだろうと」「ああ、それは誤解と誤解ではないところがありますよ」とぼくは言った。「座っていた人はちがう人ですが、夜訪ねてきた人は、たしかにぼくの知り合いです」「そうですか。お金はそのままあったんですけどね。ろうそくとぶどう、がなくなっていて。水場のそばのお盆の上にろうそくはあったんですよ。ぶどうも房以外はあったんですけど。まぁぶどうはご自分でお買いになったのかもしれませんし。でも、あんまり一致するものですから」「丘の上のイスがKWさんのものではないですか」「そこまで見に行ってはないんですよ」「一緒に見に行ってみましょうよ。こういうことははっきりさせた方がいいですよ」とぼくが言うと、KWさんはいったん断わり「彼、いるんじゃないですか」と聞くので「ぼくの自転車を貸りたっきりで帰ってこないんですよ。丘にはいませんよ」というと、自然と見に行く流れになった。KWさんはイスの色をモスグリーンと言っていて、さすがに画家だなぁと思った。そして、丘の上のイスもモスグリーンで、テープで修理した箇所もあり、KWさんのものであることは明らかだった。丘の頂上にあるイスは下界をへいげするための王座のような感じで安置されていた。ぼくたちは王座を瞥見だけして戻った。別れ際、KWさんは「彼に何も言わないでね。トラブルになるのが嫌だから」と言った。 13時からは毎週火曜にやっている「絵をかく会」だった。絵をかく会といっても、おしゃべりしている時間の方が長く、また絵を描かない人の方がたいてい多い。おしゃべりしていても、ジロウさんが自転車にのって帰ってきそうで落ち着かなかった。「絵をかく会」の常連たちに話すと、一人は「最悪のパターンだ」といい「自転車かえってこないんじゃない」。一人は「よく理解できないな」と言っていた。ジロウさんの発想はぼくにはなんとなく分かる気がするのだが、まずはジロウさんに質問すればいいと思うと気分が落ち着いた。15時を少し過ぎた頃だった。上半身裸で裸足の男がなぜか立ち入り禁止のロープを障害物競走のようにまたぎつつ、ぼくたちに向かって直進してくるのが見えた。自転車で現れるとの想定が外れて、一瞬だれ?、と思ったが、ジロウさん以外にあろうはずもなかった。ジロウさんは「ごめーん、遅くなっちゃって」と言った。ぼくが「自転車は?」と聞くと「丘に置いてきた」と答えた。ジロウさんは「みんな元気?」。みんなは顔を伏せ気味。ぼくがジロウさんに「話をしないといけないことがあるんだけど」と言うと、気さくな感じで「いいよ。なに?」と答えた。「丘の上にあるイスだけど。どうして手に入れたのか教えて」ジロウさんは少し困った顔になった。「KWさんだっけ、おじさんに貸してって言って、寝てたみたいだけど、借りた。ノーポゼション」「本人と話したんだけど、貸したつもりはないよ。黙って持っていくのはまずいよ」と言うと、ジロウさんはしかめっ面で歌いだした。「イマジン ノーポゼション」。胸のあたりに小さなギターを抱えたような手の形になっていた。声は少し悲鳴のようだった。ぼくは言った。「それをお互い了解しているならいいけど、成り立たないよ」。ジロウさんは「返そうにももうなかったよ、持って帰ったのじゃないかな、ははは」と言った。「他の誰かが持っていったのかもしれないじゃない」と強めにぼく。ジロウさんは慌て気味に「話しはそれだけ?今からおじさんのところに行ってくるよ」と立ち去った。少し後からぼくもKWさんの小屋に行ってみた。ちなみに、KWさんの小屋は、日本的の美意識が強烈に感じられる庵と呼ぶのがふさわしいテント村随一のもので、「ガイジン」さんたちがよく写真を撮っている。ジロウさんもそれが気に入って昨夜訪れたのかもしれない。KWさんの小屋に半身を入れる形で、ジロウさんが入り口に座っているのが見えた。KWさんが「集中しないといけないから」とジロウさんに言っているのが聞こえた。裸のジロウさんの背中ごしにKWさんに声をかけると「イスは事務所の人が持ってきてくれました」とKWさん。とりあえず無事に持ち主に戻っていたのでホっとした。ジロウさんは音もなく立ち去った。KWさんは絵筆を動かしながら「こっちも勝手に住んでいるのですから、ムゲにすることもできないから。でも、彼は目つきが普通ではないよ。もし何かあったら相談するから。一人で考えるよりはいいだろうからね」と言う。ジロウさんが遠くの方を歩いていくのが見えた。こういう時の身のこなしは素早い。 絵をかく会に参加しているムトウさんが、「小川くんの自転車がポーンと丘においてあるよ。本人はいないみたい。あれじゃ持って行かれるよ」というので、自転車を丘から持ち帰った。丘の頂上には布が敷かれ荷物も置いてあり、お香の煙がゆっくりとたゆたっていたが、ジロウさんの姿はなかった。今夜もここで眠るつもりなのだろう。 ジロウさんに悪意はみじんもないはずだ。自分の世界に生きているので、他人に悪意など持つことはできないのである。気持ちを予想することが苦手な人は、価値観の違う他人と折り合いをつけるのが難しい。深夜、この時間、ジロウさんは丘の上で、おぼろげに広がる星空を見ながら横になっていることだろう。 「イマジン ノーポゼション」(無所有を想像せよ)という追いつめられたジロウさんの素っ頓狂な歌声が、居心地悪くぼくの中にも刺さっている。ぼくからみたら悲劇的でも喜劇的でもあったようだった、その歌になりきれなかった悲鳴の一部は自分のものであった。 西表島の浜辺に小屋をたてて暮らしていたアルコール中毒のおじさんのことを思い出す。お酒を飲まないとジェントルなところがある人だったけど、どうしようもない酒乱で、人の網にかかった魚や罠にかかったイノシシを奪う泥棒として、周辺部落の嫌われ者だった。そのおじさんは、一定時間がたった魚や獲物は誰の物でもないというような考えを持っていた。おそらくおじさんは昔は共有され今は忘れられたルールを生きているだけなのかもしれなかった。つまりは、おじさんなりの「イマジン ノーポゼション」だったのだろう。しかし、想像することと現実はちがう。想像したことが現実になるのは、その場にいる人々に共有され、人々の関係の中に根をおろさなければならない。それは、地道で面倒な具体的なやりとり積み重ねだ。また、自らの理念や思想がどのような現実的な基盤に根ざしているかは自覚されることが少ない。無所有をいえるのは、それを支える制度やつながり(様々な意味の貯蓄、保険)があるためかもしれない。理念を共有しているかどうか分からない人との関係の中で、何かを実践するには繊細さが必要だ。そうでなければ、誤解を招くことだけのことである。無所有という実践は、自らが自らの肉体の所有をしている以上(オカルトにならずには)限界がある。所有をめぐる矛盾は終局的に解決できないということが重要で、解決できるという立場は暴力を生み出す。解決できないということを前提にして、はじめて話し合いや倫理や一時的なルールが生まれる。つまりは、他者との関わりが生まれてくる。所有を巡る実践は、現実の解毒という気休めを超えれば、常に他者との矛盾を突きつける棘のようなものでもある。 と書いた時(深夜3時)にジロウさんの声がテントの外から聞こえた。 「テツオくんいる?」「どうした?」と聞くと「散歩してた」という。「もう寝るよ」というと「分かった、明日朝にくるよ」。「朝っていっても、9時までは寝ているよ」というと「わかった」。「自転車貸して」というので「今日みたいなのは困るよ」というと「ごめんね、パン屋いったら閉まってて、携帯を充電しなくちゃいけなくて、とかいろいろあって」。「ぼくだって使うのだから考えてよ」「分かった。9時までに絶対かえす。今日のことは容赦して」声が遠のいていく。 *5日たったがジロウさんは戻ってきていない。
by isourou1
| 2016-10-10 01:17
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