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1月の半ばに2、3日関西に出かけた。新今宮駅の近くにある友人らのシェアハウスに泊めてもらっていた。新今宮の南に広がる一帯が「西成」「釜が崎」と呼ばれている日本最大のドヤ街である。友人宅は2階建ての一軒家だが、売春宿~無認可保育所という数奇な命運をたどっているらしい。目の前の道が行き止まりのせいもあるのか破格の賃貸料だった。友人宅周辺のせまい路地に立ち並ぶ木造家屋や長屋に対して、頭上高くそびえる無機質で真新しい高層ビルは、脅威のようでも、間が抜けているようにも見える。 釜が崎を訪れたのは10年前になる。路上で寝ころがっている人、ほっつき歩く野良犬、雑貨と呼ぶのをためらうような雑物が並んでいる路上フリマ(通称泥棒市)、公園のまわりに並んだバラック屋台、公園の中に設置された野外テレビとそれを突っ立って見ている人々、怪しいものをさばいているようなチンピラ、それらが渾然となって発するエネルギーは、焼け跡~闇市の戦後期に一気に飛ばされるようだった。しかも、1つの町全体がそうなのだ。野良犬がたくさんいるという時点で、ほかの町ではありえない解放感がたしかにあった。 今回は、釜ヶ崎で炊き出しをしている友人が案内してくれた。町の肌触りが以前と微妙に異なっている。一緒に歩いた関西出身のIさんは、ヒリヒリした緊張感がなくなったと言っていた。たしかに、独特の磁場が薄れている感じがした。午前中だったせいかもしれないが、よっばらいの姿があまりなく、三角公園で1匹見かけた以外に野良犬もいなくなっていた。三角公園の小屋も激減していた。三角公園は、週2回の炊き出しや夏まつり、越年越冬などが行われる釜が崎の一面を象徴するような場所だ。公園の片隅には、炊事用のかまどが4つ並んでいた。まだ薪を使っているという。たき火が出来るというのは重要なことだが、東京の公園では管理が厳しくて難しくなってしまった。あと、終戦直後の風景の中でしか見たことがなかった街頭テレビもまだ健在だった。 つづいて、四角公園に寄った。友人らと異なる団体が毎日2回配食を行っているらしい。そして、小屋もいくつかあって、番犬のような犬がこちらを見ていた。三角公園にしろ四角にしろ、行政的な正式名称を誰も使っていないことも面白い。 以前は小屋があったという高い金網に囲まれた公園は、バスケットコートがあるだけでガランとしていて、夜間は施錠していた。 その後に、あいりん労働福祉センターに行った。朝5時から仕事だしが行われる1階には台車に載せた荷物が散在し、おっさんたちがたむろしている。2階は、段ボールをしいて眠っている人たちがいた。夕方になるとシャッターが閉まって追い出されるとのことだが、雨風のしのげて横になれる場所があるのは素晴らしい。しかも、とにかくでかいのだ。コンクリートで作られた巨大戦艦のような佇まいだ。しかし、このセンターも再開発で解体が決まっているらしい。ショッピングモールの一角に入ったりしたら、たむろしたり寝たりは出来なくなるだろう。 センターから出て、前の通りを見て愕然とした。「泥棒市」が一掃されていたからだ。単なるのっぺりとした普通の道になっている。そして脇にある高架下の塀には、きれいで丁寧なウォールペィンティングが描かれている。海外からもグラフィティライターを招待したらしいが、このようなリーガルウォールをグラフィティと呼ぶ気にはならない。絵の巧緻ではなく、法や警察との敵対の中で場所を獲得する緊張と自負こそがグラフィティの存在感を決定しているはずだ。この企画に関わっていたのがシンゴ西成という地元出身ラッパーだが、商店街の中に「負けない」とのメッセージとともに、自身のどでかい顔写真の看板を掲げていて嫌な感じがした。 花園公園も見に行った。昨年、公園内外の2軒の小屋が強制排除されたところだ。以前は、たくさんのブルーシート小屋が建っていたことを記憶していただけに、腰がくだけそうになった。すっかり何もなく、終日施錠していて誰も利用できない。釜が崎の変化に次第に気分が重くなってきた。 最後に、沖縄料理屋に立ち寄った。友人がおすすめの5名で満員の小さな店だ。もともとは四角公園周りの屋台だったが強制撤去されて移転したのだという。ビールも焼酎も沖縄そばもゴーヤチャンプルーも全部500円。酒類は高い気がするが、勘定が面倒だからだろうというのが友人の推察だ。3人がソバ、ぼくはチャンプルーを注文した。小柄のおかんが小鍋でソバをゆで始める。ぼくには、さといもの煮つけを前菜的に出してくれる。と、一人の酔体のおっさんが店に入ってくる。「おかん、ビール」「おまえに出すような酒はない。帰れ」とおかんがぴしゃり。おっさん、どこかに消えてしばらくして現れる。おかんに3万円手渡していた。おそらく、ツケなのだろう。まだあるらしく謝っていた。ビール飲みながら「若い人がいるから、相手してくれないやろ」などとおっさんは言って立ち上がる。「おい、全部のまんかい。ビールが泣く」「一口のんだがな。ビールなんて泣きはせん」。おかん、しばし沈考のあと、「そうか。はや帰れ」と言うなり、いきなり飲みかけのビール瓶を奪って、ぼくらの前に置いた。おっさん、退場。チャンプルーはおいしかった。スパムもたくさん入っていた。ごはんも豆ごはん。サービスで芋の煮付けも再びくれる。 次のおっさんは紙袋をテーブルの上に置いた。「それ、何?」とおかん。「みんな薬や」。すごい量である。「はや、死ね」とおかん。さすがに言い過ぎではないかと思うが、おっさんはあまり気にしていない様子。「今、医者いってきたところや。そのあと○○屋(立ち飲み屋らしい)によってから来たんや」「なんで、まっすぐ帰らん」とおかん。「おかんの顔を見にきたんや」「おまえに見せる顔などはない」「まぁ、見るほどの顔じゃないけどな」「何ゆうているの。若い人も来てくれてるわ」とおかん。その後、このおっさんはおとなしくビールを飲んでいた。おかんは、我々に対しては「なりたいものになったらいい。大臣でも何でもなったらいい」などと言っていた。また、Iさんとの結婚についての問答では「女は一人がいい」と断言。満腹になったわれわれが立ち上がるとおかんは「また来てな」と笑顔で小さく手を振った。かわいらしい感じだった。うーん、さすがにツボを心得ている。ぼくの重苦しい気分は霧散していた。友人の話だと、いくら飲み食いしても「あんたらから受け取る金はない」と支払いを受け取ってくれないこともあると言う。資本主義を超越した空間だ、と笑いあった。 釜が崎の変化は大きく、これからも加速していきそうな情勢だった。友人の話では、街の管理は野良犬に対する苦情から始まったそうである。飼い主を特定し、野良とみなされた犬は駆除された。ホームレスに対する排除も、その発想の延長上にないとは言えないだろう。焚き火にしろ、グラフィティにしろ、ワイルド(野生)を「安全」なものに馴致する欲望が都市を変化させているのだ。それでも、それを食い破るような力の片鱗をおかんに見て、ぼくは少し励まされた。
by isourou1
| 2017-02-13 00:03
| ホームレス文化
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