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昨年は、前半だけで、あとは何も書かないという、怠慢なブログになってしまいました。
今年は、そうならないようにしようと思ってはいますが、どうなることやら。 正月は、1日はお雑煮をつくり、2日は、お汁粉をつくり、食べました。10人くらいかな。3日は、近くの駅のわきにあるダンボール村(小さいけど、ダンボール村として常時存在しているのは、ほかではあまりないのではないかと思う)で、路上でなべをした。このときは、さしいれなどがすごくて(牛さしや、韓国の方がちぢみを焼いたり、と)腹がふくれた。 そしてエノアールも4日から通常どおりやっている。 おとといは、霜柱が昼でも立っていた。例年よりおそくようやく冬が遅足でやってきた、という感じだ。昨年は、テント村のテントは3つ減って、それもぼくのまわりのテントばかりだから、なんだか、がらん、としてしまっている。今年の3月までには、同じ公園内の違うテント村から10軒くらいが、ぼくたちのテント村に移住する計画になっている。これは、望んで行うことではなく、管理側が強制的にしようとしていることだ。昨年も、3軒だけだけど、ちがう場所から移住してきた人がいた。管理側としては、1箇所にまとめた方が管理しやすいのだろうと思う。ただ、新しくテントが作れない現在では、受け入れる方としても、人数が増えるようで楽しみではある。昨日、エノアールにきた大阪のN公園の人の話では、N公園では、立ち入り禁止(テントを撤去した後は、ここでもそうだが、立ち入り禁止の札をたて、ロープを張り巡らせる)の場所にも、テントを新たに作ることをしているという話だった。すごいなぁ、とぼくは感心してしまった。テントを作りたい、という人は多いのだけど、今のところ力になれていない。 昨年暮れからの話題といえば、派遣村だろう。実は、ぼくも気になったので、4日に一日だけお邪魔した。そして、一応ボランティアという形で、厚生労働省の講堂に一泊した。さすがに、厚労省の講堂だけあって、いろんな偉い人たちが講演してもおかしくないようにと、最新鋭っぽい講堂であった。そこに、200~300人の人たちが布団を敷き寝ている。このアンバランスな光景。空調もばっちりで、ちっとも寒くない。前日は、暑くて寝られなかったという話もきいた。それでも、みんなは敷布団もあり毛布や掛け布団で寝ている。ぼくは、隅に陣取り、一応、問題なく寝られているか、半分眠りつつも見ていた。話声もなく静かだ。照明も落ちて薄暗い。でも、ひとつの異変に気がついた。いびきがしない。これだけ大勢で、しかも全員男なのだから、いびきがうるさくてもおかしくない。風邪をひいた人が咳はするが、いびきがない。多くの人が布団に入っても眠れないのかもしれないな、と思った。 ちなみに、テントで寝た人からは、前日寒くて眠れなかったという話を聞いた。キャンプ用のテントではなく、小屋型のテントだったが、寝る場所も悪かったのだろう、すきま風が寒かった上に毛布が2枚しかもらえなかったという。ただ、彼が、訴えるとすぐに多くの布団が支給されたので、大丈夫だったろうと思う。彼は、日産の工場で、年末首を切られ、翌日寮を追い出され、友人宅に居候したりした後、10日ほど新宿の地下道で寝ていたという。沖縄出身の彼には、特に寒さがこたえた様子だった。 派遣村は、就労にむけて、すがるような気持ちで村にいる感じの人が多い感じがした。目的や目標は、はっきりしている人が多い感じだった。 5日に、派遣村で炊き出しをしていた台湾の仏教団体の人たちが、用意しすぎて余っていた。けんちん汁1000名分つくり、300名分くらい余ったという話だった。ぼくとIさんが、そのけんちん汁(さつまいもの甘みがおいしい具沢山の汁)の余りをいただいていると、その団体の人たちに余った汁をホームレスに配ったらと進言する人がいて、なんだかんだしているうちにぼくたちがそのナビゲートをすることになってしまった。派遣村では、けっこうボランティアがいて、人手が足りていそうだったためもある。韓国系のキリスト教会が炊き出しをすることはよくあるけど、仏教団体が炊き出しをすることは珍しい。台湾の人たちみたいで、全員が日本語を話せるわけではなさそうだった。以前新宿のT公園で、炊き出しをしようとしたけど、管理事務所にとめられて出来なかったという。彼らのワゴンに同乗して、(車内は愉快だった。)、3つの公園を回った。はじめの公園では、知っている人たちが、マージャンをしていた。大きな鍋と洗面器に汁を入れた。次の公園は、昼なので小屋にあまり人がいなかった。路上の人たちに配って、ぼくらの住む公園に向かった。小屋の人たちが、10~20人鍋などにもらったが、まだ余っていた。しかし、彼らは時間がなく帰っていった。その後、テント村の人4人で、鍋に貰った汁を、公園で寝ている(小屋のない)人に配った。 こうして、派遣村にきた物資の一部が、偶然だけど他の場所のテント住人や野宿の人に配ることができた。派遣村には、米が4トン、カンパが2千万集まったという話だ。都内の幾つかの公園では野宿者を対象にした越冬が行われていた。もう何年もやっているのに、話題にならず、またカンパも人手も足りてないことが多そうだった。情報の格差というのがあるのだろうと思う。 派遣村は、非常に戦略的に練られていて、それは、関わっている人たちのこれまでの野宿者支援運動や反貧困の運動で培われた知恵やネットワークが有効に働いているのだろうと感じた。日比谷公園は、中央官庁に近く(政治的アピール性が強く)、またテント村がいままでないから、テントをつくることに対しての免疫がすくない。また、とりあえずテント村を作ってしまうというのは、野宿者支援をしていなければ思いつかないだろうし、越冬の経験がなければ運営も難しかったにちがいない。政治家を引っ張り出せたのも、いままでのネットワークが生かされているのだろう。これからが、大変なところなのかもしれないけど、快挙だと思う。 ただ、生活保護はもっと活用できるものにするほうがいいと思うけど、ぼくは最終的なセーフティネットは、路上や公園などにあるのだと思う。というか、なっているし、なるような社会にしていくのがいいと思っている。 新しい人がテントを作れない現状がおおきな問題だと思う。 補記(1月16日) 繰り返してのことになるけど、ぼくから見て画期的に思うことは、この公園からテント村を撤去する動きの中で、新しくテント村を作ったことだ。期間限定にせよ。社会的に派遣切り問題がクローズアップされていることが大きいだろうけど、上で書いたこと以外にも、この年末、正月という時期だからやりやすかったということもある。なぜなら、この時期は管理事務所が閉まっていたりして、警備員は見回るだろうが、一番管理が手薄な時期だから。(だから、各公園で越冬(闘争)が行えるのだろう。) また、そういうことを理解している人たちが、戦略的に的をえていることをやったとはいえ、おそらくどう転ぶか先が読めない部分の多い綱渡りだったのだろうと思う。中心スタッフの近くにいた人からの話では、常にどうしよう、どうしよう、という思いだったらしい。 3日の昼に、M公園の越冬に顔出した。友人のバンドなどに演奏してもらうように頼んでいたから。餅つきがあり、それを300人分くらい配食するのだが、支援者が指示はしていたものの、野宿の人たちが、慣れた感じでテキパキと作業する。派遣村に行っていた人は、その雰囲気のちがいを「派遣村はみなが慣れてないせいかピリピリしている。上の人が決めたことに従うという感じで、こういう一緒にやるというのがない。」と言っていた。友人らの演奏は、(少しアイラーっぽい)フリージャズなのだが、けっこう人が集まっていた。しかし、餅が終わると多くの人は帰っていく。その後は、カラオケタイム。もちろん、青空カラオケ。小さなテレビに映像を流し、拡声器で音を出す。そのしょぼいセットにかかわらず、みな心をこめて歌う。しかし、喧嘩が勃発して、中断。喧嘩は嫌だったけど、派遣村で喧嘩というのはなさそうだな、とも思う。 あと、4日夜の湯浅村長の演説を聞いたところ、厚生労働省の大村氏(副大臣)から「自然災害と同等とみなす」との言質をとりました、と言っていたと思ったのだが、記憶ちがいかもしれない。ただの「災害と同等とみなす」だったのかもしれない。人災なのか、自然災害なのかというのは、大きな違いだ。しかし、自然災害と同等とみなす、というのは、テント村などを緊急避難とみなす、ということを認めるということで、それで法的な問題はたぶん超えることができる。そういう落とし所として(行政の責任もあいまいになる)機能したのかな、と思ったりしたのだが、記憶違いかもしれない。
by isourou1
| 2009-01-12 17:22
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