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昨日につづいて、今日も水場で食器洗いをしていたら、どこからかカモちゃん2匹があらわれた。飛んできたわけでもなさそうだし、ほんとうにフト見るとカモがいるのだ。昨日は、通り過ぎただけだったが、今日は、ずっとソバにいた。水をカモちゃんの方に流してあげると、ぺたっと座って、くちばしで地面にたまった水を飲む。一匹は少し体が大きくて、くちばしの先がオレンジ色。もう一匹は、後ろの方の羽に青いところがある。2匹とも、とてもきれいで可愛い。ボウルでためた水をカモちゃんたちの方に静かに流す。水たまりに腹をつけて気持ちよさそうだ。小柄の方は目を閉じている。そこへ、カラスがやってきた。カラスは残飯ねらいだろう。大柄の方のカモが立ち上がって、クワクワクワと警戒する。カラスも一定以上、近寄らない。ぼくもカラスを睨みつける。カラスが立ち去ると、2匹とも水たまりに腹をつけて平安な時間が戻ってくる。小柄は目を閉じる。 #
by isourou1
| 2022-05-06 17:40
| ホームレス文化
数年ぶりにヒーラーのNさんがやってきた。Nさんは15年ほど前、ぼくの横のテントに住んでいたスキンヘッドの男性だ。ちょうど、チキンカレーを作っているところに、ヌッと顔を出して「何つくっているの。食べてあげようか」。言うことは前と同じである。2日前に新幹線で東京に来たそうだ。何でも、アメリカにいた時の年金をもらうことが上京の目的とのことだった。これ、あげる、と言って、差し出したスーパー袋には、カレー味のスナックとココナッツサブレが入っていた。今、カレーつくっているところじゃん、と言うと、それを入れればおいしくなる、とNさん。 もう1つのココナッツサブレについては、何かひっかかるものを感じた。というのは、よくテント村に遊びに来ているAさんもまたココナッツサブレを持参するからだ。Aさんについては、前にも少し書いたことがあるが、以前は月に3トン、アルミ缶を自転車で集めていて、今は主に光をテーマに自作の詩を歌う女性である。また、透視みたいなこともする。最近では、ウクライナの戦争をとめる歌を5つ作りました、と言っていた(聞いてはいない)。透視では、初対面の人に、体の悪いところがあるから毎日こういう体操をするように、とか、トマトジュースを飲むなとかいろいろと指示をする。時には、親元に帰った方がいい、とか、あなたはもう手遅れだ、とか、横で聞いていて冷や冷やすることを言う時もある。 ちなみに最近、私は筋トレを少しだけしている。さらに、ヨガなども。もともと運動嫌いの健康法好きだけど、飽きっぽいので、はやり廃りがある。ある日、左肩に鈍い痛みがあることを自覚しつつも、テント前にマットを敷いて、腕立て伏せをしようとしていた。そこへ、Aさんが「何をしているんですかぁ」と元気に登場した。いや、筋トレしようかと思っているだけ、と言うとAさんが、強くなりたいからですか? 光を見たいから? と聞くので、体力をつけたい、と適当に答える。すると、左腕の付け根あたりが足りない、とAさん。コロナワクチン何回打ちましたか?と聞くので、2回と答えると、それだ!2回目の後から左肩が痛むんだ、とAさん。その前から痛いけど図星ではある。うーん、うーん、とAさんが立ったまま顔をしかめて頭をねじったりしている。そこで見られていると運動しにくい、とぼくはAさんに文句を言いつつ、左肩をストレッチをしてみると、アレ、楽になっている。 するとAさんが、肩の痛みはなくなりました、全身がつながっているかな、どうだろう、うーん、と言って、さらに顔をしかめた。これで大丈夫、どこも悪いところない人になりました、とAさん。そしてココナッツサブレを差し出した。ともあれ、Aさんがぼく触れるでもなく、肩の痛みを軽減させたのは事実である。本人には言わなかったが、本物かも、と思わざるをえなかった。それから、Aさんに指示された方法(左肩をぐっと前に出すとか)でまじめに腕立て伏せをやっている。ちなみに、Aさんは毎日5時間もジムで体を鍛えているそうだ。密かに、Aさんのことをマイ・トレーナーと思っている……ただ、持病の頭痛と嘔吐でぐったりしているところにAさんが現れ「(トレーニングの成果で)むちゃくちゃ元気そうじゃないですか!」と話しかけてきて、ずっこけたが。 Nさんに「ココナッツサブレには何かあるのかな?」と聞くと「100円ショップで買ったから、こんなのしかない。安かったから」。Aさんの話を少ししてから「Aさんもココナッツサブレ持ってくるんですよね。光があるらしくて」と言うと、Nさん、低い声で「そうでしょう」。 チキンカレーに入っていた唐辛子(ネパール産の唐辛子。中国産などに比べると数倍からい)を口に含んでしまい、コップで2、3杯、水をのんでも、辛い辛い、と涙目だったNさんにとって、ココナッツサブレは、程良い甘さだったようだ。 Nさん曰く「唐辛子に比べると、地獄と天国」。
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by isourou1
| 2022-04-30 17:35
| ホームレス文化
前エントリーで、ぼくに怒鳴った男について、相手は誰でも良かったのだろう、それが自分より弱そうなら、と書いた。
でも、本当にそうなのだろうか? 男の目に、ぼくがどのように映ったのか、ということが気がかりになった。 ぼくは、現在51才でテントに暮らし初めてから18年以上がたっている。若い頃は、ホームレスに見えないという(微妙な)紹介をされたこともあった。しかし、現在の容姿は、それなりに全体的にくたびれており、昨夜の服装においても、ジャンバーなどはかなり汚れていた。 野宿者における、一般人として通るかという意味でのパス/ノンパスという問題がある。身なりだけを切り取ってみれば、おおむね、ぼくはまだパスしているだろう。そもそも身なりだけで、ノンパスの野宿者は全体としては1割を満たないはすだ。このフルイで重要な徴は、服装や髪型、顔の色(日焼け)、体臭といったもの以上に、手荷物の量や行動の様態(場所、時間、内容)である。テントを持たない移動層の野宿者は、荷物の置き場所を確保することが困難だから、手荷物が増える傾向がある。また、袋につめたアルミ缶を大量に持ち歩いている人を見たら、ほとんどの人がホームレスだと感じるだろう。アルミ缶を拾っていたり、ゴミ箱をあけて物色したり、自販機の釣り銭をチェックする行動も同様だ。ゴミ集積所を見ていたり、深夜に歩いているだけでは野宿者かどうかまでは判然としない。そのために、缶を集める人の中には、わざわざ、よれよれの服(彼はそれを営業服とよぶ)を着る人もいる。警察や地域住民に怪しまれないための、戦略的ノンパスである。しかし、一般社会の多くの場面においては、ノンパスであることは奇異な目で見られるだけでなく具体的な不利益を伴うことである。八王子のマクドナルドで、ホームレスお断りの貼り紙がされていたことも記憶に新しい。 さて、昨夜のことに話を戻すと、ぼくは自転車の荷台に大きな荷物をくくりつけ、パンパンのリュックを背負っていた。深夜3時である。男がほくをホームレスと見なした可能性はあると思う。姿を認め、すれ違うまでの時間、およそ5秒。街灯がついていたとはいえ、明るくはない。しかも、男が酩酊していた可能性もある。その判断を男に出来たのか、というと分からない。それでも、ホームレスに類する異物くらいの看取はしたのではないだろうか。 もう一つ気になるのは、ぼくの視線を男がどう感じていたのかということである。すれちがうまでの男に対する視線である。ぼくは、なにやら一人で話している(もしくは歌っている)男を酔っ払いだと感じて、少し警戒したところはあった。男は、その視線に反応し怒鳴ったのか。自転車で近づいてくるぼくを男は意識しているようには見えなかった。怒鳴りかかってきたことに驚いたのはそのためもある。視線に反応したのだとは感じなかったが、眼差しや表情というのは、とても影響力を持つことがある。それは、受け手の状態による部分が大きい。 このように男のことを考えるのは、被害をうけた側が、その事態を理解したいという気持ちの現れに見えるかもしれない。それは、加害者を赦すことに結びつく可能性ゆえに、抑制すべきと思えるかもしれない。しかし、ぼくは、どのような理由であれ男の行為は是認できないと思っている。男について考えるのは、主に、その差別性や自己中心性について、より明確にしたいからだ。 つまり、ぼくは、男に問いたかったのである。なぜ、そのような言葉をぼくに対して怒鳴ったのですか、と。 あまりに咄嗟の出来事で、ぼくは準備が出来ていなかったし、驚きと恐怖で自己防衛的に処するしかなかった。今までは、事後的であっても可能なかぎり全力で粘り強く問い返すようにしてきた。それは、かなり疲れることだし、うまく行かないことも多いが、それが暴力に対する自分の方法なのである。 今回は、そのような機会はおそらく永遠にない。それを残念に思う。 #
by isourou1
| 2021-12-23 23:07
| ホームレス文化
※暴力的な言葉を含む内容です。トラウマをお持ちの方はご注意ください 若者の街とされている中央線沿線の駅近くにある、留守がちな知人のアパートをたまに利用させてもらっている。その帰りが、深夜3時すぎになった。自転車の荷台に荷物をたくさん積んで出発。突き当たりにあるセブン-イレブンがまぶしかった。そこを曲がってしばらく行った時、前方から自転車が一台やってきた。短髪で薄着の若い男が、なにやら話している。いや、歌っているようだ。要は酔っぱらっているのだろうと思ったすれ違い様、男はペダルの上で大きく伸び上がって、「死ね!!!」と怒鳴りつけてきた。全身全霊をこめた、今まで聞いたことがないほど大声での、死ね、だった。別にぶつかりそうだったわけでもない。しかし、男にとって何か目障りだったのだろう。はっきりとぼくに向けた、男の憤怒の相が目に焼き付いた。大鉈で切りつけられたように、ぼくは慄然とした。そして、自転車をこぎつづけながら振り返ってみると、男も同様に振り返っていた。遠目だったが、男から憑き物が取れたような感触があり、ぼくの反応を味わおうとする様子が見て取れた。ぼくは、すぐに前を向いてペダルをふみ、自分の気持ちのバランスを保とうとした。そして、考えた。あの時、どうすれば良かったのだろうか。追いかけた方が良かったのか。死ぬかボンクラ、とでも怒鳴り返せば良かったか。おまえが死ね、という言葉が一瞬浮かんできたので、頭の外に振り払った。すれちがった時、ぼくの冷静に見据えた視線が男にも見えたはずだ。それ以上は出来なかったし、それで充分だったかもしれない、とも思った。5年前のことだが、暴力癖のある男が、ぼくに、シラーとした顔しやがって、と絡んできたことがあった。たしかに、ぼくは、その男を全く信用してなかったので、そのように見ただろう。そして、それは、彼にとって、それなりに堪えることだったのだ。自転車は、人気のない住宅街をぬけ、幹線道路に入った。車が少ないせいか、なんだか薄暗く感じる。しかし、それは自分の気持ちの暗さの反映だっただろう。この街では、通りすがりの他人から死ねと吐き捨てられるのだ。東京に暮らすというのは、そういうことだ。いや、東京だけでもないだろう。胃のあたりが痛む。男にとって相手は誰でも良かったのだろう。それが自分より弱そうなら。突き当たりに高速道路が黒く見えてくる。その手前を曲がるとバス停がある。昨年12月、ベンチで野宿していた女性が近隣の男性によって殺されたバス停だ。ぼくの心の中では、バス停に到着する前から、ここでの出来事が思い返されていた。さっきの男は、死ね、と言っただけだが、ここでの男は実際に殺した。殺された女性は二度と戻ってこない。結果は大きな違いだが、男の気持ちのベクトルは同じだ。ふと現れた「邪魔者」で自分の鬱憤をはらし、全能感を回復し、、、。しかし、しばらく後には、そのことが己の鬱憤を何も解決しなかったことに気づくはずだ。ぼくに怒鳴った男も、野宿者を殺した男も、今、なにを考えているのだろうと思った。バス停の隅には赤いバラと白い花が置かれてあった。女性が殺された後には、たくさんあった献花もいつしか撤去され、それでも1周忌を迎えて、また花を置く人がいるのだ。消えかかっていた、バス停の蛍光灯は交換され、ベンチを白々と照らしている。役者が立ち去った後の舞台のようだった。酔っぱらった男女たちが駅に向かって歩いていく。 さらに自転車をこぐと、住宅地の中に無人の野菜販売所がある。都会には珍しい。そして、この販売所のことも近づくに従って、ぼくの意識に上がってきた。今年の夏前、公園の野宿者に食べ物を投げつける若者グループがいた。襲われた場所に数人で泊まり込み(張り込み)をした。彼らは、深夜、自転車でやってきた。段ボールに横たわっている野宿者に「野菜いる?」「卵いる?」と声をかけ、反応したとたん、それを投げつけた。そして、しばらくすると、様子を見に自転車で戻ってきた。 その野菜の特徴から、無人販売所のものであることをぼくは突き止めた。店主は、自分の野菜が盗まれて、その上、食べられるならまだしも、襲撃に使われたことを心底、怒っていた。 警察は、無人販売所を夜は閉めるように店主に指導し、パトロールを強化した。ぼくらが若者グループを難詰したこともあり、襲撃は今のところ収まっている。 ぼくに怒鳴った男が振り返っている姿と若者グループが戻ってきて様子を伺っている光景が重なって感じられた。ますます東京で(いや、日本で)暮らしていくことを無理に感じた。 無人販売所は、明かりが灯っていた。狭いスペースにぎっしりと各地のこだわり野菜や卵が並んでいる。野菜が輝いて見えた。少しほっとした。 もう公園はすぐそこだ。両手に大きな袋をさげてヤジロベエのように歩いている男。すぐに分かった。ケンさんだ。お疲れさま、と声をかけても、こちらを見ようとしない。アルミ缶集めで、さんざん嫌な目にあっているケンさんのことだ。名前をよぶと、ああ小川さんか。こんな時間に帰ってくるんだ、と顔をあげた。今、4時ころ?と聞くと、腕時計をチラとみて、3時53分。こういうところはやけに几帳面だ。120リットルのゴミ袋2つには缶が詰まっている。大変だね、と言うと、もう年だからね、とケンさん。でも、今日は寒くないね、と言うと、うん、昨日も今日もあんまり寒くない。じゃあ、またね。ケンさんに別れを告げる。救われた。ぼくは、信号を渡って公園に入っていく。 #
by isourou1
| 2021-12-23 00:27
| ホームレス文化
若い頃、ぎっくり腰を何回か、やった。腰を痛めると体が動かない。 それ以来、腰には気をつけている。 ぼくが住んでいる公園から自転車で15分くらいのところにA公園がある。そこには、2つテントが建っている。出来たのは2016年暮れのことだ。それには、曰くがある。 明治公園に暮らしていた野宿者たちが、国立競技場建設のために、JSC(日本スポーツ振興センター)が申し立てた仮処分によって強制排除され、かろうじて明治公園の飛び地にテントを再建し暮らしていたところ、JOCと日体協の新会館ビル(ジャパンスポーツオリンピックスクエア)を建設することになり、またもや強制排除が迫り、、、それでも、現地の野宿者や応援する有志(ぼくもその1人)が着工を阻止しながら奮闘し、国会議員に働きかけ内閣委員会で五輪相を追及、という流れの中、東京都が音をあげて他の公園を代替地にすることを提案してきた、、、新規流入防止に血眼になっている管理サイドを想えば、およそあり得ない展開だった、、、そうして、いわば都の公認・お墨付きで、A公園へと2人が移転を果たした。 さらに言えば、そのうちのSさんは飛び地に暮らしてさえいなかった。明治公園での追い出しの過程で生活保護を受給しアパートに移ったものの、うまくいかずに、Sさんは近くの路上で寝起きしていたのだ。もっとも昼間は、主に飛び地のベンチで過ごしていた。国立競技場建設のあおりで生活を破壊されたことでも、飛び地の閉鎖で困るということでも、Sさんは同様だし、A公園を希望するYさんが1人で暮らすのを不安がっていたこともあった。早急に工事をしたい東京都との土壇場の交渉で、SさんもA公園に移ることになった。 Sさんは、小柄な身体で、大きなリヤカーをひきなから(注1)アルミ缶拾いをしていた。社交的な人で、話好きでもあったので、街に知り合いがたくさんいそうだった。飛び地では鳩や猫にエサを与えていた。ベンチに座っているSさんが鳩に埋もれていることもあった。 Sさんが拾っているのはアルミだけではなかった。調理器具や食材、その他もろもろ。一体、どこで拾えるのか不思議なものも多かった。今、思い出した話だが、たしか、若い頃、表参道あたりに住んで、明治公園近くの材木屋に通っていたらしい。いつから明治公園で野宿していたのか分からないが(注2)、この辺りの石ころ1つにも精通していたにちがいない。 Sさんから直接もらったり、Sさんとよく会っているK子さん(明治公園の運動の支援者)を通して貰ったりした物もたくさんある。車で、Sさんのテントまで食材を取りに行ったこともある。その時は、クリームチーズやバターや肉が山のようにあった。高級紅茶(これも山ほど)を貰ったこともあった。最近では圧力鍋。Sさんは料理好きだったのだろうし、物をあげることで関係を作ってもいたのだろう。 Sさんが便秘で飯も食えなくなっているという話をK子さんから聞いたのは、10月半ば過ぎのことだった。2週間、便が出てないし、吐いてしまって1週間は何も食べてないという。K子さんは、浣腸してもダメなら救急車を呼ぶとも言っていた。出社前と退社後、一日2回、テントまでSさんの様子を見に行っているようだった。救急搬送をSさんに断られたという話を聞くのが度重なり、さすがにまずいと思って、ぼくがSさんのテントを訪れたのは11月1日のことだった。すでに絶食して2週間以上が過ぎていた。Sさんは、テントの中のベットに亡霊のように腰掛けていた。日に焼けていた顔が蒼白になっていた。ブルーシート越しの光は青みがかるから、なおさらだ。しばらく、こちらを見て、マスクしているから誰だか分からなかったよ、と言った。これを見てくれ、と腕を差し出した。枯れ枝のような腕だった。こんなに痩せてしまったよ。 救急車の話をしても、まぁ、とか言って、外にスノコがあるだろ、とか言って話をそらす。そのうち、外にでる、と言って、テントの骨組みから下がっているヒモに掴まりながら、動き出した。横にいたK子さんが、あれ、と驚いている。そして、テントから一歩踏み出そうとした時に立っていることができず、仰向けに倒れた。さいわい頭を打たなかった。そのままのSさんを、K子さんと2人で抱き起こした。そして、クーラーボックスに板きれを載せた、テント前のベンチにSさんを座らせた。座っていても、次第に身体は傾き、支える必要があった。Sさんは、スノコで棚を作ろうと思ったけど止めた、という話を続けていた。K子さんは、病院で体を治したら作れるよ。救急車、呼ぼう。Sさんが、いや、呼ばない。やけにはっきりした口調だ。もう一回だけ浣腸を自分で試してみる、と言う。自分でやるのも大変だ、病院にいけばもっと効果的なものがあるんだから、とぼくも言う。 Sさんが、テントに戻ると言う。ぼくらが支えて立ち上がったが、テントの入り口で、Sさんはしゃがみこむようにして仰向けになってしまった。K子さんが、そこはベットじゃないよ、もっと奥だよ、と言う。入り口は1人が通るくらいのスペースしかない。Sさんは体を起こそうとしてあきらめ、脚を荷物の上にあげた。 もう、ここでいいから、寝袋あるだろ、かけてくれ、とSさん。K子さんがベットから寝袋を引っ張ってくる。荷物の下から子ネズミが現れて、倒れているSさんの頭のあたりでウロチョロ。髪の毛、食べているよ、とぼく。え、何、とSさん。K子さんが、小さいネズミがいる、3㎝くらいと言うと、123㎝はあるだろ、とSさんは落ち着いた声。ネズミも心配して出てきたんだよ、とK子さん。 不思議なことは、と、Sさん。なかなか死なないんだよ。 そんなに簡単に死ぬもんじゃないみたいですよ、とぼくが言うと、Sさんは白い顔をゆがめ声もださずに笑っているようだった。 雨の予報だった。このまま地面に寝ていると雨が流れ込んできて、びしょびしょになる。そう言って、半ば強引にSさんを抱え起こし、中腰の姿勢で、ひねるようにしてベットに載せようとした。その時、腰に痛みが走った。思ったよりSさんは重かった。上半身はベットの上だが、下半身はゴミ袋に乗っているだけ。それ以上は無理だった。Sさんは、ここでいいよ、と言う。そして、また腕を見せて、写真をとっておけ。何で? と聞くと、東京都の役人に写真を見せて、自分でゴミだし出来ないからスノコを捨てるように伝えてくれ、と言う。そんなこと、気にしなくていいよ、明日、まだ同じ姿勢だったら救急車呼ぶからね、とK子さん。 ぼくは奥の手を使った。 Sさんが病院に行かないと、心配してK子さんが毎日こないといけないじゃない、それも考えてよ。 自分のプライドやこだわりで病院に行かない人の場合、他人のためなら行くかもしれない。男のプライドは面倒くさい。しかし、それでも、その日は救急車を呼ぶことは出来なかった。 次の日も行く予定だったが、腰が痛くてやめた。 K子さんが行くと、やはり同じ姿勢のままだったらしい。救急搬送は断られたという。Sさんは、しばらく風呂に入ってないから看護師に嫌がられるだろ、とも言っていたらしい。そして、印鑑をなくしたから買うようにK子さんに頼んだ、とのことだった。用途は分からないとのこと。 次の日(11月3日)の昼、ぼくは1人でSさんを訪れた。Sさんは、地面の上に寝ていた。ゴロゴロしていたら、ベットから落ちてしまったようだ、とSさん。K子さんが毛布を干してくれたのはいいけど、湿気虫がついて刺すから眠ることが出来なかった、と言う。天気がいいからフェンスのところにでも干し直そうか、と言うと、それはダメだ。 見えるところに物を干すなって、東京都がうるさいんだ、とSさん。生活しているんだから、布団干すのは仕方ないじゃん、と言う。昨日は、目立たないように草の上に毛布を置いて干したという話だった。祝日だから役人は休みだよ、と言ったが、隣の警備員が都に報告するんだ、とSさん。湿気虫というのが何かは分からなかった。 背中が痛い、と言うので、背中の下にあったレンガとトングを引っ張り出す。痛いのは当たり前だ。楽になった、とSさん。 救急車呼ぼうか、と言うと、もう少し様子をみる、とSさん。様子をみても、良くはならないよ、と言うと、Sさんも、良くはならない、と繰り返した。 あそこを見てみろ、何か溜まっているだろ、とSさんが言う。ブルーシートを透かして黒い影のようなものが映っている。 何ですか? と聞くと、ネズミの糞だ、と言う。表から見ると、シートのくぼみに落ち葉と雨水があるだけだった。体を動かせないSさんは、固定された自分の視野に入る、ごくわずかなものについて、いろいろと考えているのだった。 Sさんに頼まれて、ラジオの電池を換える。ちょうど頭の上にあって、ノイズを発していた。Sさんは、いつもラジオを聞いている。そのため世相についてかなり詳しく話題も豊富だ。 1人ではベットの上に上げられないから力持ちを呼ばないといけないね、とぼく。ここでいい、とSさん。雨がふったら濡れるよ、Mさんでも呼ぶよ、と言うと、Sさんは、少し焦り気味で、いい、いいと言う。Mさんも明治公園の運動の活動家。キャラクター的に、睨みが効くかも、という狙いもある。 長居をせず、小一時間ほどで引き上げることにする。心からカンネンするか意識不明にならないと救急車に乗らないだろうから、そのタイミングがやってくるまで、ローテーションを組んで回数を多く見に来るのがいいだろうと考えていた。 じゃあ、ぼくは帰るよ、と言うと、Sさんは、ありがとう、と言って、こっちを見ながら胸の前で手を何回か振った。その仕草にちょっと驚きを感じた。こんなことする人だったっけ。そして、それが、ぼくがSさんと会った最期だった。 次の日、K子さんとMさんがSさんテントを訪れ、MさんがSさんをベットに腰かけさせた。小便をしてみる、というSさんを待っていたが、結局、小便を出すこともできず、Sさんはベットに横になって寝ていた。疲れた、と繰り返すSさんに、K子さんが救急車を呼ぶよ、と声をかけたところ、否定せず。ついに、119番することになった。そうと決まると、Sさんは、ヒモに掴まって半身をおこし、貴重品が入ったリュックを持参するよう指示し、帽子をかぶり、サンダルを履いて、出発の準備を整えたという。そして、K子さんの同乗のもと、無事、病院へと搬送され、点滴を打った。Sさんも、すこしはホッとしたのか、もっと点滴が早く入らないのか、などと軽口を叩いていたという。K子さんによると、病院スタッフ側の態度は、Sさんを子ども扱いするような乱暴なもので、Sさんが嫌にならないか心配だったという。ぼくも、この病院に入院した時は、看護師や医師と日々戦わないといけなかった(それがストレスだった)。 それでも、ぼくは、そして、この件のことを知っている人は、Sさんが入院したことを本当に良かったと喜んだ。このようなケースで、搬送できるか亡くなるかはギリギリなものであることを幾度も経験しているからだ。 安堵したのも束の間、病院からSさんの訃報が届いた。病態が急変して亡くなった、という。11月4日昼に入院して、6日午前2時に亡くなり、8日朝にK子さんに連絡がきた。 遺体は病院から警察署に移されるという。K子さんが警察署に掛け合って、面会させてもらえることになった。8日19時、赤坂署。ぼくとK子さんとMさんが、鑑識係の先導のもと、警察車両が並ぶ地下駐車場を歩く。その一画に安置所があった。ベットがようやく入るくらいの狭い、殺風景な部屋だ。白い布を全身と顔にかぶせられ、Sさんが横たわっている。K子さんがSさんの顔の布をめくる。ますます蒼白になったSさんは、鼻のあたりに苦悶とも不満とも思えるシワを寄せて、深く眠っているようだ。遺体の前には、線香立てと簡単な碑がおいてある。K子さんは泣いていた。線香を立てる。Mさん、ぼくの順番で、Sさんの顔に近づく。胸元に大きな波形に縫合した跡があり、そこだけが赤くなっている。これは? と聞くと、手術した跡です、と鑑識係が言う。開腹したの? と聞くと、司法解剖です、という答えだった。死因は何? と聞くと、S字結腸ガンで腫瘍ができて腸に穴があいて、便が腔内にあふれて炎症をおこして多機能不全になったのが死因です、と答えた。 解剖してから分かったそうです、と言うので、病院の検査では分からなかったの? と聞くと、CTをとったけど便がつまっていることしか分からなかった、影が映っていたけど何かわからなかったそうです。それ以上は、ぼくたちは死因のことしか分からないです、と質問を遮るように答えた。 写真をとろうとすると、署内では禁止です、というので、Sさんの顔をスケッチした。 その後、テントまで案内して欲しいという鑑識係とA公園に行った。Sさんたちの小屋のある場所は公園の隅で、入り口から、ゆるやかに坂を降りていく。暗闇の中で、それは冥府に降りていくような感じが少しある。鑑識係は、テント外観と内部を数枚撮影して、すぐに帰って行った。 Sさんは、ここで死にたかったんだろうねえ、最後に病院に連れて行かれて、腹をたてて嫌な気持ちで死ぬことになったかな、、、とK子さん。入院の準備とK子さんは言っていたけど、Sさんは死ぬ準備をしていたんだと思うよ、とMさん。 そうだと思うけど、ただ病院に行った時は、こんなに早く亡くなるとは本人も思っていなかったはずだよ、とぼく。 ぼくは、病院の診断ミスがあったのではないかと疑っている。点滴という保存的治療だけでいい状態ではなかったはずだ(注3)。 やがて近いうちに東京都によって取り壊されるだろう小屋を前にして、ぼくたちはボソボソと話し合った。 小屋があるうちに、Sさんを偲ぶ会をこの場所で行うことを決めた(付記1)。 帰り道、K子さんが、最近、Sさんと同じ道を歩いた時のことを饒舌に話していた。ビルの駐車場の守衛室にある大きめのデジタル時計で時刻を確認すること、自販機の釣り銭を探すこと、便通に難があったSさんが小まめに入る公衆トイレのある場所、やはり、Sさんは、この街の隅々まで知り抜いているのだった。また、近所に点在する、酒飲み友達の会社員たちの話。Sさんは、7月中頃にアルミ缶収集を止めてしまっていたが、それでも、歩いている時に知らない人たちからお弁当やお金をもらうらしく、そんな話を聞いて、なんかとなるんだ、とK子さんは思ったそうだ。炊き出しなどで配布している通信を届けに、K子さんが、週一回、Sさんのテントを訪れていたことを、はじめて知った。明治公園に住んでいた野宿の仲間に、亡くなったことを知らせに行く2人と別れ、自転車に乗って帰った。Sさんの手を振る姿と声もなく笑う顔が目の前にチラチラと浮かんだ。 腰の痛みは、少しだけ、まだ残っている。 (注1)K子さんから、リヤカーではなく実は台車だという指摘をうけた。改めて確認してみると、大きな台車の上に、ベニアや材木で箱を拵えつけて、さらに垂直に立てた台車、スーパーの買い物カゴ、台車の引き手と金属パイプの接合したもの、などを組み合わせて荷台を拡張させた、しごく複雑な「改造台車」であった。タイヤ交換などの修理と1からの改造をよく行っていたという。近くに、半分に寸断された台車なども転がっていた。日々のメンテナンスのためか、大きいわりにはスムーズに動く。基本が台車なので、「ひいていた」のではなく主に押していた。 (注2)K子さんが2014年頃に聞いた話で、明治公園に15、16年間に暮らしていたとのこと。 (注3)点滴だけではなく、腸管の狭い部分を広げる処置(大腸ステント治療?)をしたとのこと。 (付記1)11月14日昼に開いた。よく晴れてうららかな陽気。テント前のベンチを祭壇に、生前の写真、ゴハンやビールなどを供え、焼香した。それほど多くの参加者はいなかったが、手作りおはぎや漬物、炊き出しの残りをチャーハンしたものを食べながら、のんびりと過ごした。A公園に引っ越したものの、Sさんとケンカして自分のテントに近づけなかったYさんも無事に参加。Sさんの悪口や文句をズラズラと並べたが、祭壇には小まめに供物を持って行き、線香が立ち消える度にライターで着火していた。テントの中にあった、でん六「ビー柿」も、みんなでつまんだ。絶食していたSさんがK子さんに、これなら食べられるかもと言うので、K子さんが買ってきたものだ。Sさんの地元(山形)の会社が作っているのがミソらしかったが、たしかにおいしかった(Sさんが食べた様子はなかったが)。Sさんの物の形見分けもした。ぼくは包丁やコンロなどをもらった。Sさんのレガシーである改造台車をYさんが貰い受けることになった。物を通しても、その人を思い出がつながっていくのである。最後に、供え物のビールを皆で飲んだ。Yさんが音頭をとった。早く天国に行ってください。献杯! #
by isourou1
| 2021-11-13 01:17
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