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ほぼ毎年、自分の誕生会を自分で主催している。今年もした。今年は出し物として芝居をやることにした。芝居といってもいろいろある。というか、なんで芝居なのか自分でも分からない。そうだ、エノアールにお金がなくて何かやってカンパをもらおうと考えたのだ。エノアール(カフェ)をやること自体にはお金はかからないが、情報公開請求したり、イベントの会場費とか多少はかかっている。正月には雑煮などを作らなければならない。このままだと笑顔で新年を迎えられない懸念がある。それで、芝居。ある程度は長くないと見ている方も納得しないだろう。そんなこと考えているうちに体調崩したりして練習する時間がなくなってしまった。内容も決まっていない。困った。しかし、大丈夫。すばらしい解決法を思いついた。それぞれの持ちネタをパッチワークして、それに合った設定を決め、あとは即興。当日の午前中に打合せ(当然、全員はこない)して、いざ本番を迎えた、、、。 タイトル「宝探し」 キャスト 宝探し 私 穴掘り テント村住人 村人A テント村近くの滞留者 村人B テント村住人 ナレーション・トランペット演奏 知人(学生) ピアニカ演奏 プロンプター 知人(もらい隊) 舞台 エノアールカフェ 半透明なシートの中の(普段はキッチンにしている)空間が、舞台そで(控え)になっている。テントの前には観客が数人。となりのテントとの間の雑草が茂っている荒れ地で、ひたすらスコップをふるっている人がいる。 -小高くなっている沿道で宝探しが叫ぶ。 宝探し 15年間も縄文人の伝説の宝を探し歩いてきたのだが、、、今日もとっぷりと日が暮れようとしている、、、。おお、なんだ!古代的な夕焼けに照らされたこの村は! まさに探していた縄文人の村のようだぞ。 -宝探し、テントの方へ降りていく。 -宝探し、傍らの灰皿を取り上げる(知人が焼いた器) 宝探し こ、これは、縄文土器ではないか。こんなところに無造作に貴重なものがあるなんて。い-もの、い-もの、宝物(うかれる)。 -村人Aが立ち塞がる 村人A 怪しい奴め。何者だ! 名を名乗れ! 宝探し なんだ、藪から棒に、、、。そっちこそ、名を名乗れ。 村人A じゃあ、名乗るぞ。マイ ネーム イズ ケン、アイ リブ フォア サーティファイブ イヤーズ アンド シックス マンス イン トーキョー メガロポリタン ○○○パーク、 アイム ザ レジェンドリィ ホームレス パーソン 宝探し 何を言っているのか全く分からない。幻の縄文語か。 村人A きさまは何者だ! 宝探し まぁ、気の向くまま、風の向くままに旅をしている者とでもいいましょうか。 -村人Bがなんとなく立っている 宝探し もしもし、そこのお方。私は道に迷ってしまったのです。すっかり日もくれて、風が冷たくもなってきました。私には泊まるところがありません。一晩だけ、そのお宅、竪穴式のお宅へ泊めてもらえませんか? 村人B えっ、いいわよ。 -宝探しと村人Bは舞台そでに消える。 -村人B、再び登場して、「どうにもとまらない」を熱唱。ピアニカで伴奏。 村人A (村人Bに)この村に住んで35年。あいつは怪しいぞ。 村人B そんなことありませんわ。いい人です。 村人A いいや、悪人の顔だ。俺の大切な器がなくなったんだ。お前知らないか? 村人B たしかに、あの人が持っていたような、、、。 村人A ほーら、やっぱり。あいつは、この村の宝を全部かっぱらうつもりにちがいない。あんな奴を生かしておいたら、この村は滅びるぞ。祟りがあるぞ。この毒で殺せ。 村人B そんなこと出来ません。 村人A この村を救うためだ。 村人B わかったわ。 村人A (独白)この未開部族の調査はだれにも邪魔させないぞ。あと1歩で、ノーベル賞ものなんだ。 ナレーション 縄文前期、今から約7000年前、日本は温暖化の影響で海面が現在よりも3メートルほど高かった。東京湾の入り江は奥まで延びて、ちょうどこのテント村がある台地の下まで届いていた。貝や魚など多様な水産物を利用して縄文人はここに住みつき現在に至るのである。 -フリージャズぽいトランペットが鳴り響く。宝探しがもんどりうって登場。 宝探し 毒を盛られた。く、苦しい。助けてくれ。もうこれまでだ。 -宝探し、もだえ苦しみながら倒れる。 ナレーション ブルーシート神の登場 おお、かわいそうに。まだ、若いのに。宝を探すなんて下らないことをするから、命をなくすんだ。まぁ、わしも昔は、宝くじをかったり、馬券かったりしたもんだが。あれは、絶対、胴元が儲かるように出来ているのさ。くそぉ、金返せ。まぁ、それで、築いた財産も家族もなくすはめになったが、命はなくさなかったぞ。ブルーシート一枚あれば、テントも作れるんだ。もう一回だけ、こいつにチャンスを与えよう。起き上がって、前に進め。 -ピアニカとトランペットで「ロッキーのテーマ」演奏。宝探し、ゆっくりと立ち上がって歩き出す。 宝探し 15年、宝を探してあちこち歩き回ったが何も見つからなかった。もう、探すのにも疲れてしまった。 -穴掘りのところにたどり着く。 宝探し あなたは宝を掘ろうとしているのですか? 穴掘り いいえ、単に穴を掘っているのです。少しずつですが、穴を広げているのです。 宝探し 落とし穴ですか? 穴掘り もしかすると、そうかもしれません。役人が落ちることもあるでしょう。でも、隠れることもできます。私たちは穴から開かれた世界に出てきたように考えていますが、実際は、それぞれの穴に落ちてしまっているのです。あちこち歩いているようで、穴の中にいるのです。だから、この穴は、再び、生まれるための穴です。そして、人は何度でも穴に入っては出てくるのです。 -宝探しが穴の中に何かを見つける。 宝探し あっ、これは、、、。焼き芋だ。 ナレーション 以前のテント村は毎日たき火をして焼き芋を作っていたものだった。 村人A (きびしい口調で)掘った芋いじるな! ジョン万次郎も言っている。掘った芋いじるな! 宝探し 15時半です。 -宝探しが、焼き芋を割って観客に少しずつ配る。みんな焼き芋を食べる。 -村人Aが「トップ オブ ザ ワールド」を歌い、出演者が適当に演奏する。 ~~~~ ちなみに、村人A(ケンさん)の英語の自己紹介とトップ オブ ザ ワールドは得意の持ちネタであり、JSCによって明治公園を追い出された村人Bさんは「どうにも許せない」という替え歌を裁判の折に歌っていて、宮下公園に自殺者たちのための大きな穴を掘ったことがあるIさんは穴掘りについてはもともと一家言あったし、ロッキーのテーマはもらい隊の持ち歌である。だから練習しなくても、どうにかなったのだ。 もちろん、ここで記した内容と本番はいろいろ違っていたが、プロンプター係のKさんが影ながら指示を飛ばしてくれて、だいたいはこのように出来た。トランペットも劇的な効果をあげていた。村人Aの迫真の演技、村人Bの素なのか照れたようなセリフまわし、穴掘りの毅然とした掘りっぷり、それぞれ味があった。出演者と同じくらいの人数の観客にも、評判はそこそこ良かったようである。でも、やり終えた安堵感で、肝心のカンパのことはすっかり忘れていた。
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by isourou1
| 2019-01-12 12:22
| ホームレス文化
人の住処には、なぜか表・裏という意識がついて回る。一軒家において立派な玄関があっても、裏口はないか質素なつくりかである。裏口の方が豪華だった、という試しはない。裏口入学が胸を張るという話も聞かない。これは、結局のところ、身体に腹と背があるためだろうし、目が一方を向いているためであろう。外界に意識があるときには玄関を向き、内面に意識があるときには玄関に背を向けた方が落ち着くのではないだろうか。そして、テント生活というのは外界を意識しているものなので、自分が玄関と思っている方を向いているのが常態である。だから、裏の方から声をかけられたり、のぞかれたりするのは、嫌、というか、相当に違和感がある。ぼくのテントの場合だと、裏には荷物が積まれているので、出入りしていないことは分かるはずである。それでも、荷物をかきいるようにして、裏から声をかけてくる人がたまにいる。テント内に人影が見えたので委細構わずやってきただけで、悪意がないことは分かるが、注意散漫な人、と思わざるを得ない。毎朝、声がけしてくる警備員・職員にも、裏から、ちょいとのぞきこむ者がいた。夏は暑いからメッシュにしているのである。これは不快だから注意をした。以後、しなくなったようである。 どんな住まいであっても、玄関と思われる方から声はかけることは、案外、見落としがちな大事なポイントだと思う。
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by isourou1
| 2018-09-23 23:44
| ホームレス文化
昨日もまた鴨ちゃんに出会った。食器洗いに水場に行くと、住人の一人が水浴びをしていた。もう水の冷たさに痺れる季節ではない。彼がぼくの背後を指さして何事が言った。体を洗った水が細く延びて、その先に1匹の鴨がいた。渓流に身を浸すがごとくである。もう一匹の鴨は、さらに先の樹下におり、その奥には夜の間だけ竹ひごとシートで簡易な寝場所をつくっている方が泰然と地面にあぐらをかいている。パンくずか何かをあげているようで、群がるスズメに少し迷惑げに鴨は首をひねっている。2匹ともすっかりとおちついて、一幅の仙人画の中に収まった具合である。水浴びしていた住人が帰ったので、ぼくも水を飛ばして清流を復活する。流れくる水の気配に鴨は一瞬腰を浮かせたが、クチバシで水をすくって顎をあげて飲み干した。しごく満足げに数回くりかえす。 「やっぱり水が好きなんですね」と遠方に声をかけると「あっちに行けばいっぱいあるのにね」泰然たる声が帰ってきた。たしかに人工であるにせよ広々とした池が数百メートル先にある。炊き出しをしている門にも来ていたという話もあり、エサをもらえるから、このあたりを居所と定めたものだろうか。まぁ、われわれだって、鴨のことはいえないかもしれない。食器を洗い終わって立ち去る時も、鴨たちに動く気配はなかった。頭の上でカラスが何かうらやましげに鳴いていた。
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by isourou1
| 2018-06-10 16:55
| ホームレス文化
桜が散った頃だったか、大小2匹の鴨が連れだって歩いていた。テント村から近いトイレのあたりをスタスタと歩いていた。その後ろから、カラスがピョコンピョコン。からかっているのだろう。鴨は180度首を後ろにひねって「なんでついてくるのよ。いい加減にしてえ」という具合にグァと鳴く。カラスは立ち止まるが、再びピョコンピョコンとついて歩く。しかし、そういう鴨も特に目的はなさそうだ。天気がいいから散歩しているのだろう。 もう1ヶ月以上がたっているが、未だ近辺に居ついている。トイレ近くの樹下に、ゴーカートのごとくブルーシートで囲いを作って暮らしている人に、鴨のことを聞いてみたら「ああ親子のやつ。5月くらいは子鴨が親にくっついて歩いていたけど、最近では子どもが前を歩いているよ」と言う。たしかに2匹の大きさが変わらなくなっている。どっちが子どもが分かるなんてさすがである。「さっき、そこを歩いていたよ」と言うので、見に行くと水場あたりを悠長に行進している。しかし、なんでこの辺りにずっといるのだろうか? 特に鴨が好きそうなものがあるわけでもなく、テリトリーというには漠然とした感じである。 ちなみに、今回のタイトルは、日頃は粗暴な立ち振る舞いもなくはない知人のホームレスのおっさんが、鳩に餌をあげながら、鳩ちゃん、と呼びかけているのに倣ったものである。
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by isourou1
| 2018-06-07 21:53
| ホームレス文化
昨年来、親しくしていた友人が先月末に他界した。その人は、エノアールカフェでの反五輪英会話教室で指南役をつとめ、もらい隊の歌とパフォーマンスにおいても重要なメンバーだった。1か月を超える入院・闘病を経た後ではあったが、そのあまりに急に思われる死による取り残された気持ちを未だに整理が出来ていない。たくさんの思い出はあるが、死にまつわることで、いくつかのエピソードを書いておきたい。 2回目のお見舞いの時、肝不全のために腹が張って食欲もなく、彼はベットの上に半身を起こす力もなくなっていた。口数も前回より減っていた。病室にたどり着く前に、彼の名前をナースステーションで告げたら、けげんな顔をされたのだが、それはフロアを間違えたせいで、そこが産婦人科だったというのを笑い話のつもりでしたのだが、彼はちっとも面白そうではなかった。ぼくらは5人ほどいて、一人が持参したポストカードを殺風景な病室にみんなで貼ったり、海苔玉ふりかけの袋を貼ったりした。そうこうしているうちに、看護士が来客を告げ、恰幅のよい黒人女性と中南米の出身を思わせる女性が現れた。黒人女性は、すぐに彼の手をとり語りかけていた。一方、中南米の女性は後ろに控えながら、ハンドバックからキリスト教のパンフらしきものを取り出すと見舞い客であるぼくたちに配布しだした。彼は黒人女性を入管の問題の活動家としてぼくらに紹介した。彼女は、携帯電話で知人の牧師を呼び出していた。中南米女性は、みんなでお祈りをしましょう、と真剣な眼差しで、イザヤ書のどこどこのイエスがなになにしたところを読みます、と言った。ぼくらは、急な展開に反応も少なく立っていた。コミュニストであることを彼は表明していたから、少なくとも無宗教であるはずだった。でも、もしかすると宗教的な力が役立つような場面かもしれないとも感じたので、お祈りする気はなかったがぼくも黙っていた。しかし、彼女がスマホをまるで十字架をかざすかのように彼に向け、そこから自動翻訳による無機質ですっとんきょうな聖書を読む女性音声が流れ出したのには耐えがたい違和感があった。ついに「私、この声きらい」と一人が言った。中南米女性は「わたし、日本語話せないから。キリストの言葉だから」と言った。それに対して「私が読もうか」と先ほどの人が返したが、ぼくは「イヤっていう人がいるんだし、彼が求めているかもわからない」と言った。彼も英語で「この人たち(ぼくたち)はアポイントをとって来ている。くる時には予約してからきてほしい。重ならないように調整しないといけないから」というようなことを英語できちんと二人に説明している。それでも、お祈りをしましょう、と言うので、ぼくたちは病室をしばらく出ることにした。10分ほどして戻ると、中南米の女性はベットの後ろを手をふりまわしながら「よくなる、絶対大丈夫、イエス様が守っている、絶対よくなる」等と熱心に唱えながら歩いていた。黒人女性は彼のそばにいて、あなたは死なない、魂は永遠だから、みたいなことを繰り返し説いているようだった。中南米女性に、まだ?と聞くと、もう終わりますと笑顔で言って、じきに帰り支度をはじめた。黒人女性は去り際に、彼は私の家族みたい、私のお兄さんみたい、と何度もぼくたちに言っていた。それから、嵐が過ぎた後のように、ぼくたちは一息ついたのだったが、彼の心身に意外な変化が起きているのを感じた。彼は、従前より元気になっていた。 3回目のお見舞いの時、本人は「ますます悪化しています」と言っていたし、傍目にもそれは明らかだった。全身に体液がたまり、命綱になっている左肺あたりのわずかな空隙を失わないために横向きのまま体位を変えることができなかった彼は、酸素吸入をしながらの発話も苦しそうで、枕に押し当てられた側の顔はむくんで片目がつぶれかかっていた。約束通り桜の花を公園から摘んでもっていったのだが、それを見る彼にうれしい(ふりであっても)顔をつくる余裕はないようだった。ただ、みんなで絵をかいて彼に見せた時、歌っている彼の姿をイメージしたぼくの絵に対して表情のこわばりがとれた。笑ったようにも見えた。でも、ぼくの他の絵には反応がなかった。彼は、疲れたと2度言った。1度は特に何のきっかけもなくつぶやくように、2度目は見舞いに行った3人で手をつなぎ彼の頭と足に手を置いて、つまりは1つのサークルを描くようにして、気功をしてみた時だった。ともあれ「気」を2巡させて、その後、もう一回と言うと、疲れたと拒否をした。その試み自体は、それほど本気ともいえないものだったが、気功の話が出た時に彼は身を乗り出すようにした。刻々と迫ってくる死出の予感を前に、藁をもすがる思いがあるようだった。そして、別れの挨拶をして退室するぼくらを見つめた彼の目は、生きている人たちを遠くに感じているようで、すぐに焦点を失っていた。 それから3日ほどたって、彼が亡くなった夜半にぼくは1つの夢を見た。詳しくは思いだせないが、それはスマートフォンの画面が粉々に割れるというものだった。あせった気分のままに目が覚めて、彼のことを思わなくもなかった。なぜなら、彼の枕元には充電コードが刺さったままのスマホがいつもあり、それが病院の外との接点になっているようだったからだ。それだけなら入院患者にとり特別なことではないかもしれない。だけど、彼が部屋にひきこもり一日中スマホを見ている(やっている)ことがあるという話は以前聞いていて、またネット界での独特な活動(その活動と生身の彼に距離があったのは多くの人の認めるところ)を活発にしていた彼にとって、スマホとの紐帯はとても強いはずだった。だから、この夢は一種の予知夢のように感じられた。その日、病院にお見舞いに行ったのだが、看護士は「この病棟にはいません。詳しいことは家族に聞いてください」としか言わなかった。ぼくは「亡くなったわけではないですよね」と思わず反問したが、看護士の答えは変わらなかった。不吉なことを言うものではない、と同行の人にたしなめられたが、いずれにせよ家族に連絡する当てがほとんどなかったぼくたちは途方にくれた。その翌日、彼の兄がフェイスブックに弟の死について書いているのを友人が発見し、ようやくぼくらは真相がわかった。 彼の死から10日ほど後、エノアールカフェで<偲ぶ会>をやる予定の朝、テントの中でぼくは彼からの預かり物を見つけた。それは、3回目のお見舞いに行った時すぐに彼から渡されたものだった。他の公園に住んでいる(そして、もらい隊メンバーでもある)人のために、病院食のおやつ(ビスケットやようかん)を彼は貯めていたのだった。2回目のお見舞いの時に、彼が残したおやつをその人が喜んで持って帰ったのを覚えていたのだろう。食欲不振もあったのだろうが、あんな体調の中でも人の役に立つことを考えていたかと思うと何ともせつない気分になった。そして、ぼくは預かり物のことをその時まですっかり忘れていたのだった。 しのぶ会の翌日、ぼくは、生活保護の施設から出てきたばかりの人のための毛布を取りに、役所のスロープ下に行った。そこは夜間ねむれる場所として獲得しているところなのだが、ぼくが使用していた毛布も置いてあった。スロープの下なので屈まないと頭が天井につかえてしまう。そして、毛布を外に出そうとした時、天井に張り出した鉄骨にしたたか額をぶつけてしまった。真っ暗になった目の上に火花がきれいに飛び散り、あまりの衝撃にひっくり返った。コブとアザが出来た。全くの不注意だった。一方で、友人が死んだのだから、これくらいのことはないとバランスがとれない、と腑に落ちる感じもしたのが自分でも不思議だった。 #
by isourou1
| 2018-04-17 13:01
| ホームレス文化
年を取ったせいかもしれない。ちゃんと寝ないとダメである。深夜バスに乗ると翌日はダメである。オールナイトのイベントは行く気がしない。今年になってから、ダンボールハウスでけっこう寝ている。新しい寝場所をつくる応援のためである。10名から20名くらいで寝ている。それは独特な一体感がある。多くの人は、段ボールを敷くか風よけを作っているだけで、いわゆるハウス型は3人しかいない。毎晩つくるのが面倒なのかもしれない。たしかに組み立てに10分くらいかかる。でも、ぼくはダンボールハウス派である。ガムテープも使えば、すきま風もほとんど入ってこない。地面からの冷えを遮断するためにテントマット2枚に毛布2枚を敷いているので、マイナス5度以下の夜でも寒くなかった。 それでも、ダンボールハウスに連泊すると身体が芯から疲れてしまう。そんな時、テントに戻って布団に入り込むと天国だなぁと思う。疲れが布団に吸い込まれるようだ。ダンボールハウスが肩幅くらいしかなく寝返りが好きに打てないせいもある。寝返ると、布団がどっかに行ってしまったりもする。もう少し大きいダンボールを使えばいいのだが、あんまり落ちてないし、収納がかさばる。ダンボールハウスを作れない場所で寝てみたら、たしかに、手足が伸ばせて悪くなかった。中には、毛布を沢山使ってくださいと言っても、1枚でいいっす、という人もいる。それぞれにスタイルがある。ただ、もし条件が許せば、長時間寝る人が多いのは間違いない。長時間寝ないと身体が持たないのだ。ダンボールハウスのことを話していて「ロケット」と呼んだ人がいた。すると、横から「棺桶だ」とチャチャが入った。箱に入って自由に夢を見るということでは、精神的な宇宙遊泳とも言えるが、その形態はたしかに棺桶に近い。段ボールハウスに入りながら、ガムテープですきまを苦心して塞いでいる時、死人が自ら棺桶に釘を打つ、という不穏で不条理なイメージが湧いてくる。この寝場所にたどり着いた、老年の女性が夢の話をしてくれたことがあった。自分が5センチくらいの大きさになって棺桶に入れられているのだけど、まだ生きているのよ。声をあげて訴えているのだけど、誰も気がつかないの。 追記 段ボールハウスの方が良いという確信が揺らいできた。寝相の自由というのが大切みたいだ。ハウスをつくらず、風防に段ボールを立てるぐらいの方がノビノビ熟睡できるようだ。もちろん、大きなハウスを作る手はあるのだが、大きくて丈夫な段ボールや支えの壁が必要だったり、様々な条件がある。その点、段ボールを敷いて寝るというのはシンプルで場所をあまり選ばない。うーん、ハウスを作ってないのは、ものぐさというよりは試行錯誤の結果なのかもしれない。(2018・3・06) #
by isourou1
| 2018-02-22 12:13
| ホームレス文化
![]() まずは話し合いをもって<渋谷新宿もらい隊>という名前を決めた。そして、10月頭にすぐに本番と思ったが、もっと練習してから、という慎重論もあり延期した。練習!、少なくとも最近は、自分にとってご無沙汰の言葉である。今までの人生で、曲らしいものが吹けた記憶(小学生)がある唯一の楽器であるリコーダーに挑戦することにした。週に1回くらいのペースで集まった。雨の日も歩道橋の下で練習した。人数が少なくても練習した。ちなみに、曲はオリジナルソングの他には、とりあえず、<ドラえもんの歌><ぼくドラえもん>の替え歌。上手くなっているかどうかは分からないが、けっこう楽しい。楽器が出来るという噂だった人は、やはり器用にピアニカを吹くので<バンマス>になってもらった。10年吹いていたという人のトランペットからは「ボー」という汽笛なような音しかならず、でも即興で歌うとおもしろかったり、野宿の知人に音楽の知識があったり、といろいろな発見もあった。寿町に出入りしているピアニカが上手な人が参加したり、友人が本番前にお神楽に戻ってしまったり、と人の出入りがありつつも、11月3日、第一回目の街歩きをついに決行することになった。 地域社会である。テントに暮らして15年近くがたとうとしているが、地域社会との関係は希薄だった。もちろん、アルミ缶を集めている人は近隣の街が仕事場であり、苦情や温情を含めての接触があるし、かつては犬の散歩を請け負う人や塾の前を清掃する人もいた。しかし、エノアールをはじめた頃に近隣の店にチラシを置いた他は、地域と積極的な関わりをぼくは持とうとしてこなかった。路上での生活とは異なり、公園での生活はある程度、地域と隔絶できることが多い。そのことが差別や襲撃を防ぐ面も助長している面もあるだろう。いずれにせよ、地域社会(一般社会)というのは荷が重いものだ。ただ、そろそろ、自分なりのやり方で地域に打って出ても良いのではないかと思い始めていた。 11月3日、快晴。メンバーの一人が持ってきてくれた衣装(チャイナドレスなど。これは誰も着用しなかったが)から、お面やバニーの耳などで仮装をすると華やいだ雰囲気になった。なるべく派手めに行きたいところである。一人はシュロの大きな葉を背中につけた。公園の門付近で一通り練習をする。テント村の2人と偶然来た2人に見送られ、にぎやかに出発! 先頭には「渋谷新宿もらい隊」の幟、総勢8名。浮き足だつ感じである。あれだけ練習したのに、本番になるとリコーダーがまるで上手く吹けない。街を流して演奏しながら、ここぞ、という店の前で立ち止まり「商売繁盛!千客万来!」などと囃しつつ唄い、おもむろに入店して簡潔に説明してチラシを渡す。 このあたりにはパン屋が多い。昔からあるような町のパン屋から、天然酵母パン、おしゃれな高級パン屋、デンマークパン。パン屋をお得意さんにしたいと考えていた。個人経営が多いし、また、売れ残ることだってあるにちがいない。 1つ目のパン屋は行列が出来ていて店員は相手にしてくれない。そんな余裕がないのだ。当たり前だが、あまり忙しい時に行っても上手くいかない。数軒まわるうちに、店によって、店の外とのつながりにちがいがあるのを感じた。店の外で何が起きていても中では分からない店と、外とゆるくつながっているような店があるのだ。BGMを流して外とちがう空間を演出し、自動ドアの中に異物が入ってこないのが戸締まりきっちりの店。一方で、外とのつながりが感じられて(たとえば、ドアが開いていたり外にさまざまなチラシを置いたり)異物も受け入れる雰囲気の店もある。もらい隊にとって、どちらが取っつきよいか言うまでないだろう。戸締まりきっちりな店は、外で演奏していることも分からないし、いきなりのちん入者が訳の分からないチラシをもってきたという営業妨害に感じるだろう。店のあり方にも思想が現れることに、今さらながら気づかされた。 ベーグルやクッキーを作っている、あるお店では、残った時いつもどうしようかと思っていた、もらってくれる人がいるならばうれしい、とむしろお礼を言われ驚いた。はじめての好感触だっただけに、もらい隊の演奏も盛り上がる。さらに、天然酵母パンの草分けとして知られているパン屋さんは、その場でパンを持たせてくれた。すばらしい! そして、このパン屋さんは前述したような(いい意味で!)戸締まりがゆるいお店の代表でもある。店の外には、さまざまチラシだけではなく、お客さん同士が物を融通しあうための箱まである。ぼくらの意図もまた、打てば響くように通じたにちがいない。ここまででコースの半分くらい。そんなに歩いていないのだが、ピアニカの人の顔をみて驚いた。死にそうである。ずっと、吹きっぱなしだから酸欠なのである。休憩をとった。高いテンションと緊張の中で演奏しながら歩くのは、思った以上にハードであった。結局、この日はパン屋(ベーグル屋)3軒、スーパー3軒、惣菜・弁当屋2軒、カフェ2軒をまわった。 もらい隊というありそうもなかったことは、実際やってみてもありえないことのようでもあるけど、実在していることに触れて(あるいは実在させてみて)はじめて信じられるようなことは実はたくさんある。テント村もそうだし、現在、ぼくが段ボールハウスの中でこれを書いているところの役所敷地の終日占拠も、ありそうもないことであった。これについては、いずれ書くことがあると思う。会うまでは想像しずらい人も野宿者にはいる。もらい隊というのは小さなミラクルだとぼくは思っている。 * 2回目のもらい隊は11月25日。1回目に回れなかったところに足を伸ばすことにした。前回、祝日だったために休みだった店も回った。総勢7名。当たり前のことかもしれないが、すべてのお店が快く迎え入れてくれるわけではなく、福の神というよりは触らぬ神という感じの対応から、チェーン店では、本部からの指示がないと出来ません等と断られた。でも、テント村の古参の人が心配していたような嫌な思い(塩をまかれる的な?)というものはなかった。 あと、並び順も考えて演奏しやすくなったこともあるのか、演奏が上手く合っていると感じる瞬間があった。そうなると気持ちいい。風景にハマっている気分になる。エネルギーが周囲に流れていると言ってもいい。即興でもおもしろい演奏が出来たりもした。お店の人から写真をとられたり、拍手をもらったりと気分も上々。ルートから少し離れたところにあるパン屋にも行った。それには訳がある。以前、毎週のようにテント村に自転車でやってきて、パンを配ってくれる方がいた。通称「パンのおじさん」。朴訥な口調で「がんばってください」と声をかけてくれるのだが、それ以上の会話をしたことがなかった。以前も書いたが、ある時に入ってみたパン屋さんに、おじさんからいただいているパンが並んでいたことがあった。おしゃれなパン屋だった。そして、昨年10月頃、テント村の前でおじさんと出会い、初めて会話をかわした。パン配りは、体調がきつくなってやめたのだという。それで、一応、もらっていたパン屋のことを聞いてみると、思ったとおりの店だった。なので、少し遠くても、そのお店だけには行かないといけない。住宅地にあるパン屋には行列が出来ていた。大人気である。もしかすると、以前のようにパンの余りというのは出ないかもしれない、、。と、その時、「パンのおじさん」が通りがかった。にこやかに会釈して通りすぎた。あまりの偶然に、一瞬呆気にとられてしまった。 店内に入ると3、4人でいっぱい。その中でどうにか説明をした。忙しいのに丁寧に対応してくれたのはさすがである。後に聞くと、その間、演奏に合わせて手拍子をとってくれた人がいたらしい。もしかすると「パンのおじさん」だったのかもしれない。 最後はフリマ的にお店を出している人たちの前で演奏して、駅前で解散。 * さて、問題は、どのお店からもまだ連絡がないということである。もらい隊は、街を歩く、いわば営業的な演奏隊と実際に貰って分配する実働隊という2つの活動を束ねたものだと考えている。後者の活動については、ぼくが担おうと思っているが、もらい先が増えてくれば複数名で活動するつもりである。演奏隊は野宿以外の人もいる(割合からいうとその方が多い)。演奏隊が必ずしも残り物を貰う仕組みにはなっていない。そこに問題が潜伏しているかもしれないのだが、今のところの議論では、演奏して楽しいからいい、当日もらう分は演奏隊で貰えばいい、ということになっている。そもそも、お店からの連絡がないので問題にすらならないのだが。いずれにせよ、このような背景や実態からしても、演奏隊は独自に発展していく可能性がある。まず、目をつけたのが、渋谷で行われる越年越冬闘争である。ぼくは例年、越年越冬にそれほど積極的に関わっているわけではない。エノアールの正月イベントにも重なっているので時間的にも参加しにくい。エノアールの正月は、越年の活動で疲れた人がやってくるという裏イベント的な要素もあった。しかし、今年はそれなりに越年の実行委員の寄り合いにも顔を出した。理由は他にもあるのだが、1つはもらい隊の演奏を越年に組み込む任務(野望)があったためである。そして、年も押し詰まった12月30日、もらい隊は越年デビューを飾ったのである。その模様は、もらい隊のブログに書いたので引用する。 ...寒風ふきすさぶ年の瀬、渋谷にある美竹公園では、熱く「越年越冬闘争」が行われていました。越年越冬闘争を知らない? はい、それは渋谷近辺に暮らす野宿者たちが集い、(日雇いなどの)仕事が枯渇し福祉の窓口も閉まってしまう年末年始をともに乗り越えていこう、食べ物や寝る所が必要なので、それも支援してもらいつつ共に作っていこう、それだけじゃなく娯楽も必要だから、映画や餅つきや紅白も一緒に楽しもう、それだけじゃなくて、芝居もあるよという、ある意味、厳しい中にも楽しい場です。そして、もらい隊も演奏を敢行しました!! まずは、炊き出しの後で満腹の人たちがわんさかの美竹公園(小さい児童公園)の中を「もらい隊の歌」とともに練り歩き。今回は、(旗持ち入れて)9人の大所帯。掛け声が飛び交い、テンションがはじめから上がり気味。立ち並んだところでオリジナルソング「もらい隊のテーマ」。会場のみならず、歌声はコンクリートジャングルにコダマする。つづいて、「ぼくもらい隊」。天まで届けとばかりに「炊き出しバンザイ」「月がきれい」とフリースタイル。それから、大喜利の演奏とともに、果敢にも、ぶっつけで漫才。謎すぎる! 割りと笑いも。おもいがけず、実行委からみかんがメンバーに配布される。もらい隊の本懐を遂げた感激の中で、この日のために用意した「宮下公園の歌」。原曲は、古い労働歌のブレッド&ローゼズ。朗々と、今は解体された宮下公園への思いを歌い上げる。メインボーカルは、さきほどもらったみかんをジュースにするかのごとく握りしめながら力唱。そして、最後の曲は「ウォンテッド」。ついに、ゴジラのように新ピンクレディが美竹公園に蘇った! 野宿者を取り巻く行政を痛烈に批判しながらも可憐にも踊り、まさに、蝶のように舞い蜂のように刺す何でもアリな状態。会場の盛り上がりもそれなりにピークに達し、「もらいの兄妹」でアンコールをしめながら、やりきりました。 でも、それだけでは終わらず、渋谷の街で続行することを提案、宮益坂交差点で1時間にわたり越年越冬へのカンパを貰うために演奏しました。集まったお金(8000円以上)は、実行委へのカンパとさせていただきました。越年越冬や街頭で聞いてくださった皆さん、ありがとうございました。 * 本当は、越年での演奏の後は冬眠するつもりだった。寒いので。ただ、旅芸人は、ゴゼにしろ春駒にしろ、寒風吹く中で粉雪まじりで流していくのが似合っている。あと、すでに訪れた店を再訪する理由としては新年の挨拶というのはまたとない機会といえる。寒いとか言っている場合じゃない。 第3回目の街歩きは1月13日と決まった。またしても晴天に恵まれた。今回は、越年以来の木琴も参加。計6名。越年時に使った赤いマントに加えて黄色いマントも羽織った。出発前に、通りがかった欧米人の一行に写真をとってもらうなど、すっかりこなれてきた。新曲のYMOのカバー曲「もらいディーン」や「ウォンテッド」を練習をかねて演奏しつつスタート。脈がありそうだったお店に、謹賀新年、あけましておめでとうの挨拶、演奏をする。1回目にパンをいただいたお店は、前回にもましてたくさんのパンを提供してくれた。店主自ら(だと思う)出てきて歓待の意を表明してくれたのはうれしかった。すてきなお店である。2回かけたコースを1回でまわるのだから、時間がかかる。またしても、ピアニカの人が死にかけていた。コース半ばで長めの休憩をとる。のんびりしていると眠くなってくる。ちょっと緊張感にかけているようである。多少、新しい道も歩く。豆腐屋さんの店頭にアンパンマン人形があるので、すかさず「もらい隊のマーチ」(アンパンマンのマーチ替え歌)を演奏。これも新曲。演奏隊がリラックスしているためか、街ゆく人たちに2回声をかけられた。住む家を探すために街を歩いているという2人組は、決まったら連絡します、とのこと。一方で、「うちはけっこうです」という冷たいあいらいのお店や、前回と異なり相手にしてもらえなくなったお店などもあった。おもわず、ネガティブな形で話題になっているのかな、と不安になる。ピアニカの人が、クラシックから民謡までメドレーで吹いて能ある鷹の爪をチラリと見せた。 テント村に帰って食べたパンがすごくおいしかった。 * 今後、もらい隊はどうなっていくのか。メンバーの中では、さまざまなアイデアが生まれている。けっこう大きな野望もある。形態やあり方が変化していくかもしれないけど、しっかりと「渋谷新宿もらい隊」は芽生えて育ってきたということはいえる。 (追記) ついに、もらい隊に電話がきました! お一人で運営されている焼き菓子屋さん。もらい隊で訪れた時には、とても丁寧に、そのうち連絡します、とおっしゃっていたのですが、ついにその時がきた。20個のプチケーキとパウンドケーキ4個。冷凍保存してくれていた。売れ残ったもの、少し焼きすぎたもの、試食用に切ったものなど。早速、もらい隊メンバーやテント村の人々に配って歩いた。とんでもなくおいしい。厳選された原料の素朴な味。もらい隊に関心をしめしつつも、なかなかメンバーになってくれない人が一番うれしそうだった。「正直、もうダメかと思っていたんですよ」と彼。「いやぁ、これは貴重な一歩ですよ。もしかすると、他のお店にも話してくれるかもしれないじゃないですか。心して食べさせてもらいますよ」と目を輝かせた。 #
by isourou1
| 2018-02-02 20:15
| ホームレス文化
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by isourou1
| 2018-01-25 20:23
| ホームレス文化
昨晩の雨はすごかった。台風がきていたらしいが、まさに豪雨。テントにあたる雨音で、激烈なトンネル工事の中に横たわっているようで眠りが浅かった。ここ数日は雨ばかりだが、昨日の昼は図書館にいて、ふと建物はすごいなと思った。まるで雨音がしない。鉄筋コンクリートの中は、雨音だけではなく、暑くも寒くもなく風もなくエアコンデンションされた人工的な環境である。そういうところでは、自然の影響下にある人たち(野宿者たち)はよく目立ってしまう。あんな雨の中、図書館に行こうとは一般的な図書館利用者はあまり思わないものだから、昨日は特に我々の同胞の割合が高かった。ぼくもそうだったが、靴もスボンはびしょぬれ。中には、靴を手にもって素足で歩いている人もいて驚いた。異臭のことも問題にされるが、外で風が吹いているところであれば、たいていはどうにかなる。人工的な環境ゆえの問題でもある。ぼくも頻繁に体を洗っているわけではないから、周りの目が気になる時もある。 とはいえ、テントだってやはり人工的な空間ではあり、豪雨の時は、より簡素なスタイルで暮らしている人のことを思う。たとえば、簡単なシート掛けだけで寝ている人たちのことを大丈夫かなと思う。一昨日の夜、雨の中、突然「○○さんいる?」とぼくの名前を呼びかけてきた人がいた。「たくさん弁当もらったから持ってきたんだけど」。近くの公園の片隅にサマーベットを置いて暮らしているMさんだった。ブルーシートを掛け布団のように被って寝ている。近くの公園といっても、足の悪いMさんでは20分以上はかかるだろう。しかも、雨の中である。Mさんの手には、幕の内弁当らしき箱が5つ。ありがとうとしかいいようがない。Mさんは、このテント村に住んでいたのだが、公園協会の職員(都の派遣職員かもしれないが)の「ダメだったら戻ってきていいから」という甘言に乗せられて福祉を利用してドヤに入った。しかし、ほどなくして、お酒のことで福祉が打ち切りになったらしく路上生活になった。Mさんはぼくに弁当を手渡すとすぐに帰ろうとしたが傘をさしていない。しかも、すべって転んだ。「さっきも転んだ」とMさん。傘をあげようとしても「いらないよ」の一点ばりだった。Mさんに限らず、雨でも傘をささない人はいる。公園の全面閉鎖で小屋からハウジングファーストという区の福祉施策に乗せられ、そこから出てきて路上で暮らしているSさんもそうだ。これからの季節は、服をぬらすのは生命に関わる問題だから心配になるが傘をささない。二人に共通しているのは、お酒が好きということと足が悪かったり弱っていたりするということなので、傘を持っていると倒れた時に危険なのかもしれない。もしかすると、美学みたいなものも少し関係しているのかもしれない。 今日は、25度近くまで気温が上がるそうだ。これで濡れていた布団や靴も乾くだろう。人工的な環境から離れれるほどに、自然の移ろいと恵みを直に感じることにもなる。
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by isourou1
| 2017-10-23 08:19
| ホームレス文化
重苦しい思いの中、朝早く目が覚めてしまった。それで、これを書くことにした。 4月末のある朝、ぼくのテントを他の小公園で野宿する知人が二人訪ねてきた。その頃は、M公園で野宿者追い出しがあったばかりで、その小公園などを新たな場所として確保する活動が行われていた。見慣れた人たちだったが、まだ7時前である。それに、70歳近い方が口から血を流し唇が腫れている。どうしたの?と聞くと殴られて歯が3本折れたという。話すのもつらそうである。もう一人が説明してくれた。 小公園の近くで、日の出前に毎日、おにぎりを配る炊き出しがある。その際、若い男が列に割り込んできた。その男に注意をしたところ殴られたという。正確には、一度もめたのを止めて収まったのだが、横を向いているときに、いきなり殴りつけてきたという。 その後、近くの交番の警察官を呼んだのだけど、警察官は殴られた人に「あなたが逃げればいいじゃないか」「あんなやつ、明らかにホームレスだから金をとれない」など言ったとのこと。「傷害罪だから、(民事ではなくて)刑事事件でしょ」と言ったんだけど相手にしてくれない、たぶん警察も知っているんじゃないの、あいつのこと。男が住んでいる高架下に話を聞きに行っていたけど、それだけだよ。 ぼくは、その男(以下、K)には会ったことはなかったが、切れ切れに噂は耳にしていた。公園の夜間施錠を阻止するための行動に、たびたび現れ、はじめは食べ物をねだる程度だったが、最近は振る舞いが粗暴になっている。M公園に寝ていた人たちのところにも現れて「食べ物ください」というので、食べ物とともに炊き出しの一覧表を渡した。しかし、翌日も起こして「食べ物ください」というし、近くで立ち小便をするなど目に余るので「他にいけばいいじゃないか」と追い出した。高架下で周囲を睨みつけていて通りにくい、、、 殴られた方は「俺がM公園を追い出したので、恨みに思っていたんじゃない。わざと俺の前に割り込んだと思うよ。放っておけばよかったんだ。相手にしたからいけなかったんだ。俺がバカだったよ。殴られ損じゃないの」と痛そうに口を動かす。とにかく早く傷口を縫ってもらわないといけないし、今後のために診断書もとった方がいい。まだ、役所も閉まっているので救急車を呼んだ。 救急車の中で病院も決まったところで、警察官が乗り込んできて取り調べを始めた。本籍のことなどを言い出すので、彼は「だったら帰るよ」と寝台から体を起こそうとする。ぼくは、彼をなだめながら「公園に生活の本拠があるので、野宿状態の対応でお願いします」と救急隊員に言い、警察には「まずは病院に行く」と引き取ってもらった。 唇は8針縫った。歯については(抜けたものを持参していた)何度も通う必要があるらしく本人があきらめた。唇はますます腫れてきていた。しかし、告訴は思い直して被害届けも出さないとのことだった。 殴られた方が寝ている小公園では、支援団体が週末に炊き出しを行っている。Kも毎回、来ているという。そのため、炊き出し前に緊急で会議をもった。高架下で寝ている人の友人も男から暴行を受けたようだった。しかし、今回の件について、炊き出しをしている支援団体は「当事者間の問題には介入しない」という考えであった。おそらくこれまでの経験から生まれた原則なのだろう。出来事自体がよその炊き出しで起きたことでもある。しかし、昼間は毎日のように小公園にKがきており、夜も寝ているところ「たばこをくれ」などと顔を出していた。テントのある小公園にKが立ち入らないようにしないと強い不安の中で生活することになる。M公園を追い出された人たちと共に小公園の場を作ってきたという思いがぼくにも(他の人にも)ある。被害を受けたものが立ち去るということの繰り返しにはうんざりだった。それには、小公園で活動する団体の中で足並みを揃えないと実効的なことは難しい。炊き出しを行っている支援団体に改めて対応を検討してもらうことになった。その結果、誰であれ求めているかぎりは食べ物を渡さないわけにはいかないが、小公園の外でKに対応すると言ってくれた。また、施錠阻止の行動をしている団体も同意だった。 その日、Kはやはり炊き出しにやってきた。片手に手袋をして常に肩ぐらいの高さにあげている。殴った手を負傷したようだ。まだ30才前後で炊き出しの中でも明らかに若い。片手が使えない彼に支援者が親身に食べ物を用意している。腹が空いていると粗暴になるのでKが食べてから話したいと支援団体の人は言っていた。Kが帰ろうとしているところに声をかけて、自分とKを入れて4人で車座になって話した。「手、大丈夫?」と支援者。「はい、大丈夫っす」。「どうして怪我したの?」と支援者。「3日前くらいにぶつけて」「どこで?」「分からないです」。Kは、両手を突き出すようにしゃがみながら体を不安げに揺らしている。「嘘いっているよね。昨日の朝、炊き出しで人を殴ったでしょ」とぼく。「はい」とK。意外とあっさり認めた。「ここでは暴力は絶対に許さないから。この公園にはこないようにしてもらえる?」とぼく。Kは「もうしません」と言って耐えきれなくなったように立ち上がってどこかへ行こうとする。それを支援者が止めるようにして「炊き出しは、公園の外に渡すようにするから」。Kは「公園の外から叫べばいいんですか?」。支援者は公園の入り口の階段を示しながら「ここまではいいから。ここにいてくれれば持っていくから」。Kは「分かりました」。支援者は「われわれは、警察に言うとかそういうことは考えていないから」。Kは「警察はなにも言わなかった」とかごにょごにょと言う。ぼくは「警察は関係ない。ぼくたちが許さないから」と強調する。もう一人の支援者が「みんな大変な中で生活しているの分かっているんでしょ。それを」と言うのをさえぎるようにして、従前の支援者が「分かった?」と聞く。Kが「分かりました」。支援者が、額に揃えた手を当てる敬礼ポーズで「お疲れさまでした」というと、とたんにKは相貌を崩してうれしそうな笑顔で同じポーズをとり「お疲れさまでした」と直立。若干、あっけにとられる。その後、Kはちがうボランティアの人に付き添われて銭湯に行った。支援者は、Kをなだめるようなことを言い過ぎたかもしれないと反省していたが、あれ以上長く話すのは危ないとも言っていた。ぼくは、炊き出し以外も小公園に立ち入り禁止ということがKの頭に残っているか、いささか疑問だった。 その夜は、小公園にマットを敷き毛布をかぶって寝た。 ぼくは気がつかなかったが、深夜2時ころにKが小公園の中をうろうろしていたということだった。 翌朝、小公園の中で10名ほどで会議をしている時にも、Kがやってきた。公衆トイレの前の水場で、Kはペットボトルに水を汲んでいた。そして、会議の方をチラチラと見ている。ぼくは、注意をしようかと立ち上がったが、まずは会議で対応を話し合うことにした。トイレも水もライフラインではある。しかし、水くみをOKにしたら全てがなし崩しになる、それでは自分たちがやっていけない。トイレも水場も他にもある、それを伝えればいいという意見もあった。改めてKに小公園への立ち入り禁止を告げることになった。活動家の一人は「排除するわけではないんだよね」と言った。ぼくは「結果としてKがこの街にいられなくなっても仕方がないと思っている」と言った。 最初にKに声をかける役割がぼくになった。「殴られそうだったら間に入ってくださいよ」と半分冗談で言った。大丈夫だろうと思ったが、Kは喧嘩では敵なしという話だった。7、8人で公園を出てKが寝ている高架下に向かった。よく晴れた日で、路面が白く反射していた。高架下は薄暗く、汚れた毛布にくるまってKが横になっていた。しゃがみこんで声をかけた。「さっき、小公園に水くみに来ていたけど昨日伝えたことは分かっているよね」。Kは「わかっている」と言って毛布を顔まで引き上げた。横から活動者が「ちょっと話をきいてくれる?」と声をかける。「小公園は生活の場なんだから、暴力をふるったあなたが立ち入いることはやめてほしい」とぼくが言うと、毛布から顔を出して「ゴミ出しもダメなんですか?」と反問してきた。「他で探して」と言うと「どこにあるんですか?」とK。他の人がゴミ箱、トイレ、水のある場所をそれぞれ説明した。それを聞いてKは「思い出しました」と言って、再び、毛布で顔を覆った。 小公園に戻って、きちんと伝えられたのがよかったことや、もし再び小公園にKがくるようだったら、何回でも同じように集団で話をしようと確認した。 数日後に行われた野宿者追い出しに反対するデモをガードレールに座ってKは見ていたらしい。それ以来、Kを見かけなくなった。高架下の寝床は放置されたままだった。毛布の上には、イヤフォンなどが散らばっていて、ちょっと出かけただけのように見えたが帰ってくることはなかった。Kが暴行をもっと働いていたことも分かった。ぼくの住む公園での炊き出しでも殴られた人がいたし、高架下で寝ていた人もKに「金を貸してくれ」と言われ断ると顔を強く蹴られたという話だった。高架下にはKをさけ誰もいなくなっていた。小公園の住人の推測だと「Kは一人ずつ暴力ふるってつぶしていけば、なんとかなると思っているんじゃないの」ということだった。それは誰からも相手にされないのと同じであることをKに理解してほしいとぼくは思った。この街にいられなくなった方がKのためだと思っていた。きちんと失敗することで、もしかするとちがう街でちがうやり方で生きていけるようになるかもしれない。そうでなければ、Kは生きていけないだろう。 小公園の人は「意外とああいう人間も使い道があるんだよ。暴れる奴はヤクザにだいたい誘われて、いいように使われる」と言った。いずれにせよ、それからKのこなくなった小公園は、ひととき平和になった。それは、ぼくにとっては暴力をふるう者への対応に成功した経験だった。小公園に生まれていたコミュニティの力だったし、それを強めもした出来事になったと思う。Kはちがう街に行ったのだろうという話もあった。しかし、7月の半ばごろ、突然Kの消息を聞かされた。この街で一番の繁華している大通りでKは泡をふいて倒れて、誰も救急車を呼ばないままに死んだというのだ。酒は盗んで飲んでいたが何も食べていなかったという話も聞いた。ただの噂かもしれない。でも、ぼくには本当のことに思える。そして、そのことが澱のように胸にたまっている。自分がKの居場所を狭めたことは事実だと思うが、後悔しているのはそのことではない。そんなやり方では生きていけない、ということを彼に言わなかった。おそらく言っても仕方なかっただろう。しかし、何かを踏みこえて言わなければいけないことを言わないままにしたという思いは消えることがない。 #
by isourou1
| 2017-09-25 23:30
| ホームレス文化
![]() この夏、残念だったのはトマトが実らなかったこと。 6月半ば、近くの公園に住む知人が2株のトマトを持ってきてくれた。しばらくは、簡易な鉢に入ったままで放置されていたが、その方がぼくのテントの脇に植えてくれた。あたりの土を掘り返し耕して、あっという間の早業。親切なことに液体肥料まで買ってきてくれました。種類が違うのか、1つは20センチほど、もう1つは倍くらいの大きさ。 あいにく、翌日は一斉清掃だった。雨で延期になったのだが、前日に延期の放送をしなかったことに文句でも言おうかと役人の一行を待っていた(延期でも廻ってくる)。昨日はセンター長が腰が痛くて休んだから、、、などという言い訳を聞いていると「なんだ、これ」「花でも植えたの」「トマトだ」、「だめだよ、これ」と声があがる。植物に詳しい職員がいるのだろう。「私物化しちゃこまるよ」と大げさなことを言う。「そのままにしていると注意してなかったと言うだろうからね。注意したから」というので「はい、話は聞きました」と言うと「抜きなさい」と大声をだす。一部の職員だけが熱心に言っている感じである。馬鹿馬鹿しいとの思いの職員もいるだろう。野いちごがトマトに変わったところでなにを騒ぐことがあろうか。 別の場所に小屋がけしている知人がトマトに木の枝で支柱をつけてくれた。しかし、トマトは思うように成長しなかった。高木があたりに茂っているために、日当たりが悪いせいかもしれない。生来的にズボラなぼくは、そもそも毎日水をやったりすることは苦手である。そのせいかもしれない。特に、小さい方は全く成長する気配がない。そのうちに虫に食べられたのか葉っぱがなくなった。 7月の一斉の時、渋面をつくってトマトの苗をにらみつけている職員がいる。新顔の職員だから威厳をしめしたいのだろうが、生育の悪さに言葉を選んでいるようなので、先手をうって「弱っている」というと苦笑い。「抜いてよ」と軽く言って通り過ぎる。「違法植物どうなっている?」と聞いてくる職員もいる。大麻か何かのようだ。「こんなところに植えてもウマくないよ」と言うので「こっちは期待しているんだ」と答える。若干名の職員にトマトの心配をしてるかのようなニュアンスも出てきたのは人情というものだろう。しかし、残念ながら、小さいトマトの苗は自然消滅してしまい、大きい方もいつのまにか茎だけになっていた。実るどころではない。 植物は人間の言葉を聞き分けるという話がある。モーツァルトを聴かせた野菜は生育がよいらしいのである。しかるに、わがトマトは、東京都の役人に、抜けだの、ウマくないだの生存を否定する罵声を浴びせられてきた。その影響は甚大であっただろう。今月の一斉時に、そんな文句を職員に言ってみたら「斜面では育たないよ」と話をそらした。 #
by isourou1
| 2017-09-25 13:48
| ホームレス文化
2年近くにわたって、テント村には犬の糞が投げつけられてきた。当初は、特定のテントに集中していたが、今年になってからはぼくのテントにもたまに投げられることもあった。テント村全域に広がってきたのだ。被害を受ける人が増えるにしたがって、テント村内に怒りや呆れがたまってきていた。 6月半ば、夜10時30分すぎに、ぼくはちょうど銭湯に行こうとして表に出ていた。雨あがりで、あたりはうっすら霧がかっていた。足早に園道を歩いてくる男が見えた。外灯に照らされた男は、黄色いレインコートのフードを目深に被っていた。中型犬を連れ、手にはビニール袋を持っているのがチラリと見えた。怪しいかも、と思って園道に出て姿を追ってみると、男がうでを素早く振り、直後にバサという音。「犯人だ」と胸が高鳴る。追いかけようとしたが、カメラを持っていこう、とテントに引き返す。改めて、走って追いかけると姿が見えない。見失った、、、。充分に間に合うとよんでいたのだが、男の歩調が想像以上に早かったのか、もしくは異変を察して走って逃げたのかもしれない。身長は180センチくらいで、横顔は欧米人のように見えた。腕の振り具合は、素早く的確だった。 実は、少し前に、テント村の住人が糞を投げた男に声をかけたことがあり、その時、男は急に走り出して逃げたとのことだった。 いずれにせよ、カメラを取りに戻ったのは失敗であった。身の回りの人たちに、相手と接触できたら、どうするべきかを聞いてみた。ぼくは、つけていって相手の家を確認しようと思っていた。怒りの中では妄想的なこともいろいろと考える。しかし、ちがう公園にテントを張っている人に、迷惑しているからやめるようにお願いするしかないんじゃないの、と言われて、それが一番冷静な判断だと思った。そう思うと気持ちも落ち着いた。夜中の同時刻にぼくは外に出て待っていた。しかし、週に3、4回、時間はまちまちに糞は投げられていた。のんびりと対応しようと考えだした矢先、チャンスが再びやってきた。 7月はじめ、夜1時すぎに、テントに物がぶつかる音がした。デジカメ、スマホを手にして外へ飛び出した。テント村が終わるあたり、梅林の外灯の下に、犬を連れた男がいる。白人である。ぼくが近寄り、少し離れたところで足をとめると、こちらをじっと窺っている。そして、犬を促して軽くジョギングをはじめた。ぼくも、同じくジョギング。公園の門を出たとたん、男は猛ダッシュした。ぼくも同様。男は陸橋をかけあがったが、その手前で、ポケットからスマホを落とした。それを取りに戻ってきた男より、一瞬だけ早くぼくはスマホを拾い上げた。そして、「あんた、犬の糞を投げているよね」と動悸を押さえながら言った。「ああ、たまに」と男は認め、なにやら英語で言うが、それは無視して「やめてほしいんだよね。みんな嫌がっているんだ」と言う。男は「もう、やめる」。首が太く筋骨ががっちりとした格闘技でもやっていそうなタイプだ。「携帯かえして」と言うので、「あとで返すけどさ、本当にやめてもらえる?」と聞く。男は、少し落ち着いたらしく、滑らかな日本語で話し出した。 「俺は、税金払っている。仕事をして家をかって住んでいる。こんな一等地に住んで、うらやましいよ。俺だって住みたいよ」。「住めばいいじゃないか。応援するよ」。「そういうわけにはいかない。俺は働いている。ルールを守っている。毎日、この公園を通って、テントがあるのを見るのが嫌なんだ。迷惑しているんだ。みんなそう思っている」。「みんな思っているということはないだろう。でも、あなたが嫌な気持ちであることを別に否定はしないよ。だからって、犬の糞を投げるっていうのは、そういう表現方法はどうかと思うよ」とぼくが言うと「たしかに大人っぽくない」と男。 周りに誰もいない深夜の公園で、ぼくたちは手の届くような距離で対面しながら互いのことを探り合っている。「でも、何で犬の糞が嫌なんだ?」と男が唐突に聞いてくる。汚いという答えを引き出して、テントや野宿者のことに鏡返しするつもりだな、と思って「排泄物だからだよ」と答える。「それに、あなたの気持ちがこもっているからだ」と言うと、「まぁ、たしかに嫌がらせをしたいと思っている。犬の糞くらい拾えという思いがある」と男。 「あなたは、どうやって生活しているのか?」と男。「その前に、あなたはどうやって生活しているの?」と聞くと「俺が聞いているんだ。まぉ俺は、輸入の仕事とかをしているけど。あんた働けるでしょ」「ほとんど賃労働はしていないよ」「じゃあ、盗みをしているの?」男の目の光が強くなる。「してないよ」「しているんだろ」。思いこんでいるようだ。「公園の掃除」「それでお金もらえるの」「東京都の失業対策の仕事だよ」「そういう仕事を増やせばいいんだ」と男。 男は、盗み以外にも誤解していることが多かった。「福祉を受けているんだろ」。ぼくが「ここにいる人は誰も生活保護を受けていない。公園にいながら福祉は受けられない」と言うと「失業保険はもらっているのか」。「ぼくは、貰うほど働いてないよ。ここに失業保険を貰っている人はほとんどいないはずだ」。それにしても、難しい日本語を知っている。仕事で使うのだろうか。 男は、さらに意外なことを言い出した。「病気のホームレスとかは俺も応援したい。そのために税金を払っている。俺も支援するよ」「あなたは、そういう人に犬の糞を投げつけているかもしれないんだよ」「その可能性はある。でも、選んで投げている」「病気かどうかなんてあんたに分からないだろ。支援する前に、糞を投げるのをやめてくれ。そんな人が支援といっても誰が信用するんだ」 男の飼っている犬はとてもおとなしい。鳴き声一つ立てない。よく調教されているようだ。 男は何度も「馬鹿にされている気がする」と繰り返した。「たしかに、イライラしていた」とも。「こっちが働いているのにキャンプみたいに暮らして、あなたは住みたくて住んでいるんだろ」「今の仕事やめて、あなたも住めばどうなの。ぼくは、あなたみたいに仕事が出来ないしやりたいとも思っていないよ」とぼく。スマホは途中で男に返した。ぼくとしては、男に約束はさせたし、言葉のやりとりが出来ているので、それ以上のことは考えていなかった。スマホが返ってくると男は劣勢を挽回した気になったようで「あなたはスマホを返してくれたし、一年くらいはやめるよ」と言った。「ずっとやめていただきたい。これはお願いだ」とぼく。男は「どうやったら、出ていってくれるんだ。そのためには、俺も支援をするよ」と言う。「出ていかないよ。ここにはコミュニティがあるんだよ。つながりがある」とぼく。「でも、駐車違反と同じだ、ルール違反だ、あなたの場所じゃない」と男は繰り返す。「ルールは誰が決めたの。それに所有については難しい問題だと思うよ」と言うと「共産主義とかあるかもしれないが」と男。 男は責めてくる時には目が光り、ある程度腑に落ちると目に力がなくなる。 20分くらい話しただろうか、ぼくは疲れてきた。「もう、そろそろ、いいじゃないか。あんたの言うことも聞いたよ。こっちとしては、もう犬の糞を投げないでくれということだ」。それに対して「どうやったら出ていくのか、支援をするよ」と男。そして「話したかった」と男は最後に言って去った。 彼が支援したいと言い出した時は空耳かと思ったほどだったが、聞いていくうちに、不思議ではなくなった。犬の糞も支援も彼にとっては公園から追い出すためのものでしかない。行政も公園から出すことばかりを支援と言っているのだから発想においては彼とたいした違いがない。 次の日、ケンさんに話すと「80点だな」と言った。「スマホを拾ったのは幸いだったね。相手にシラを切られた終わりだから。名前は聞いた?」「聞かなかった。本当のことは言わないでしょ。1対1だから、難しいよ」「そうだね、もっと人がいれば展開も出来ただろうけど」。 集中的に小屋を攻撃されてきた人は、もっと手厳しかった。「世知にたけているあなたにしては、名前も住所も聞かないというのは、信じられない。ちょっと甘いのではないですか?」 深甚な被害を受けた人の気持ちに納まらないものがあるのは当然だ。男は謝罪すらしていない。ただ、ぼくが出来ることとしては、今回はこれでよかったと思っている。テント村を攻撃することを許さないという気持ちは伝わったはずだ。また、糞を投げることが彼自身をも損ねる行為であることに、多少は思い当たったはずだと思う。いみじくも、最大の被害者が逆転の発想で語った「糞にまみれた人生を送っているのは、私ではなくて彼ですよ」という言葉には1つの真実がある。もちろん、彼が再開するようなことがあったら別なことを考えるが、ぼくは彼はもうしないだろうと思っている。そんな気配を感じたし、真剣な会話にはそのくらいの力があると信じたい。1週間後の昼間に、犬を連れた彼が園道から、硬い表情で「グットモーニング」と声をかけてきた。それ以来、彼の姿は見ていない。 #
by isourou1
| 2017-08-17 20:36
| ホームレス文化
実は英語の勉強をしている。かれこれ、5年くらいはしているはずだ。恥ずかしいから、英語学習本が何冊あるかは言えない。ほとんどブックオフで購入したものだ(安く買う方法があるのだが本筋とちがうからここでは書かない)。いずれにしても英語はまだ出来ない。 オリンピックが近づいてくるに従って、ただでさえ強迫観念的に盛んな英語学習熱がうっとおしい聖火のごとく燃えあがるのは目に見えている。そこで、対抗的に反五輪英会話教室というものが、エノアール(ぼくのテント前)で開かれている。すでに7回を数える。 講師は企業研修でも教えたことがあるというツネックスさん。いつも前夜や当日の電車の中で素敵な手書きテキストをつくってくれる。内容はツボを得て勉強になる。スペルミスもあるけど、それもいい感じだ。はじめに自己紹介をして、フレーズ練習、単語の発音練習、会話練習、歌、フリートークとメニューも本格的にそれっぽい。最初の回は通訳をしている人やある程度話せる人も含めて10人ほど集まったが、それ以降は4人くらい。すべて出ているのは初心者のぼくandケンさん。たとえは悪いが、水は低きに流るるという観もあり、当初こそ、内容もオリンピックや渋谷での野宿者排除、性差別、アルミ缶収集での警察とのやりとりにアジ演説などだったが、自称「常識人」のケンさんのリクエストで道案内とかになってきた。反五輪でも何でもない。少しバランスをとろうと思ったのかケンさんが、「Down with Mitui! Down with Hasebe! Down with capitalism! Take back Miyashita!」をみんなで最後にやればいいじゃない、と提案してそういうことになっている。英会話教室で一番盛り上がるのは歌である。これも、最初は<I shall overcome>だったが、最近はカーペンターズ<top of the world>。サウンドオブミュージックの先生のように(この映画みたことがないので想像だけど)ツネックス先生が立ち上がって唱道してくれる。ヒット曲はあまり聴かないわけだが、改めて歌ってみるとメロディがよく出来ていることに感心した。一方で一番盛り下がるというか、形にならないのがフリートークである。英語力があまりないぼくにはそもそも無理があるが、みんなも気恥ずかしそうだ。ぼくだけでなく出来る人にも英語コンプレックスはあって、日本語で話せばいいじゃん、という引力に負けて尻すぼみになってしまう。海外にいるとか追い込まれた状況でないと本気になりにくいのは仕方ないかもしれない。その点、ケンさんは堂々としている。ハッキリ大声で言えばいいだろうと一音ずつ舌を噛みきる勢いで発音している。弱音が特徴の英語なのでそれで通じるのかよく分からないが、声が小さくてよく分からないということは確実にない。そして、目標もハッキリしている。すでに、(なぜか)英語での山の手線車内放送、アメリカの州と州都の読み上げという芸を持っているケンさんは、自己紹介とあいさつ代わりのカーペンターズが次の目標である。自己紹介は「私は、この公園に34年間住んでいる」と英語で言った後に「アイ アム ザ レジェンドリー ホームレス パーソン」そして「ザッツ オール」と晴れやかな顔。しかし、考えてみると、自らのホームレス性を高らかに宣言するというのは日頃「常識人」を標榜しているケンさんからは少し遠い。これは、おそらく自己主張が強く物事を明確に話すという英語のイメージに底上げされているのだろう。思わぬ英語の効用である。たしかに、海外において、やけに物事をはっきりと言っている自分に驚くことがある。言葉が足りないせいもあるが、なんかそうなっちゃうのである。お姉言葉を使ってみると物事がズケズケと指摘できるし、大阪弁なら冗談も言いやすいだろう。言葉にはそれぞれの属性があるようだ。ケンさんの自己紹介には、挨拶に変えてと英語で言ってから歌うというオプションが今回からついた。エノアールに海外からのお客さんがくる度に、トップ オブ ザ ワールドを聴くことになるかと思うと少し気が重い(でも一緒に歌うかも)。あと、ケンさんはマイウェイも歌いたいそうだ。高らか感ここに極まりけり、という事態である。なんだか、ケンさんだけが英語が上達しているようで悔しい気もする。ともあれ、反五輪の看板が取れかかっている英会話教室がどの道を行くのか、今のところ不明である。
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by isourou1
| 2017-06-27 12:02
| ホームレス文化
オカルトとかスピリチャルとかよばれる領域のことはあまり信じていない。ただし、猫のテレパシー、気功、虫の知らせの3つはあるように思っている。 虫の知らせ。いまわの際にいる人の声や姿が遠隔の場所で知覚されるという現象は経験したことがある。相手はバンドで歌っていた人で長年の知人だったが、日頃会うことはあまりなかった。虫の知らせというのは夢の中の登場人物にも似て、親しいから現れるわけではないかもしれない。福祉施設で夜勤をしていた時のことである。ガランと広い部屋で夜明け前に、その知人の声が耳元ではっきりと聞こえた。「私の声を聞いて」。目が覚めたが、もちろんあたりには誰もいなかった。同僚から「あの部屋は出るのよ」と言われ、そんなものかと思ったが、後日、その夜に知人が亡くなっていたことを知った。 ぼくは、最近、区役所の敷地内に寝ることもあるのだが、古参の警備員が声をかけてきた。旧区役所の地盤下にあった駐車場に、30名前後の人が泊まっていた時のことも彼は知っている。2012年に地下駐車場から野宿者は排除され、やがて区役所は取り壊された。現在は仮庁舎である。同所に泊まることがあるHさんについての話を警備員がはじめた。「おどろいたよ、Hさんすっかり変わっちゃって。地下駐車場の頃は「ウサギ」と呼ばれていたんだよ。景気よくってさ、まわりの連中に飯をふるまったりしていたよ」「へぇ、想像できないね。何でウサギって呼ばれていたの?」「飼っていたからだよ」。地下駐車場は朝6時までに荷物を畳んで立ち去らないといけなかった。「ウサギも台車に載せて出ていったよ」と警備員。ぼくの知っているHさんと全然ちがう。そんなマメなことをしそうにないし、羽振りがよいHさんというのも想像しにくい。日課がシケモク拾いのどちらかというとトボケた味のある人だ。たまに、大声を出したりするけど、うーん。「人ちがいじゃないの?」と言うと「そんなことないよ。「ウサギ?」って聞いたら、「うん」とうなずいていたもの」と警備員は確信している。その警備員が「たしかに地下駐は天国だったな」と言った。どちらかというと仕切りがうるさい印象だったので意味は分からなかった。2日後、この公園でSさんが亡くなったという話を聞いた。ぼくとSさんの関係はあまり良いものではなかった。そのためもあって、悲しいというよりも狐につままれたような気がした。Sさんには、渡したチラシを目の前で破り捨てられたことがあった。怒りや不満というよりも、力を誇示して反応を試すような嫌な感触があった。Sさんは、公園の歩道橋下で寝ていた。雨がしのげる貴重な場所であるが、Sさんにそうじを強要されたり、出ていけと言われたりして、ほとんど他に寝る人がいなかった。Sさんのようなタイプはたいてい管理側のお偉方と仲良くして、管理側も滞留者を増やさないために利用する。ぼくとSさんは、すれ違いざま、にらみ合うような時もあった。ふつうの会話をした記憶もない。ぼくにも仲の悪い人や嫌いな人が複数いて、中には暴力癖がある人もいるし、テントの外は常にどこかヒリついている。ただし、ぼくのSさんの印象はおそらくはかなり一面的だろう。Sさんはいくつかの炊き出しを手伝っていたし、それなりにSさんと親しかった人はショックを受けている様子だった。たしかに、最近のSさんは元気がなかった(ぼくからチラシを受け取ったりもしていた)が、あまりに突然の死であった。テント村の人とSさんの思い出を話しているうちに、ぼくの隣に住んでいた加藤さん(故人)がSさんのことを「ウサギのおじさん」と呼んでいたことを思い出した。それで、先日、警備員が話していた人がSさんであることに思い当たった。Sさんは駐車場に住んでいた人だった。ただ、HさんとSさんでは風貌も人格も口調もまるでちがっていて、似ているのは白髪が多いことくらいだ。なぜ、警備員が間違えたのか分からない。いずれにせよ、亡くなる数時間前に、警備員とぼくはSさんの話をしていたことになる。虫の知らせだとしても混線気味なのが野宿の世界らしいのかもしれない。
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by isourou1
| 2017-05-16 12:04
| ホームレス文化
花見の季節である。桜はまだ5分咲きだけど、晴天の今日(4月2日)の公園は最高の人出であった。そして、このブログでも何回も書いていると思うが、花見シーズンこそ私たちのかきいれ時なのである。ブルーシートや(好きな人は)お酒、お菓子、アルミ缶などが無尽蔵に手に入る。花見客が捨てていくからである。今日はエノアールの花見であった。 そして、長年の構想を温めていた「Y公園もらい隊」が発足するにはもってこいの日であった。エノアール花見では、次第に形骸化してきているとはいえ、一芸大会が開かれる。一年で最大の晴れ舞台と準備に余念がないケンさんによる、競馬中継、日本の県庁所在地・アメリカの州都、山の手線の英語車内アナウンスといったクドいくらいの暗記芸や司会者であったさくらさんのカラオケの熱唱、参加者による様々な歌などが、今年も披露された。 近くに座っていた方の「帰る人に声をかければいくらでも物がもらえそうだな」という発言に我が意を得たりと、とりあえず一芸の枠でY公園もらい隊を発表することにした。従前より、のぼり旗は用意していた。カーテンとハンガーで作ったむしろ旗である。 まずは、もらい隊の歌をみんなで唱和した。こんな感じの簡単な歌詞である。 Y公園花見です あまった食べ物もらいたい おいしいお酒ももらいたい Y公園もらい隊 Y公園花見です そろそろ寒くなってきた あまった食べ物もらいたい Y公園もらい隊 メロディは考えたつもりだったが、あいまいだったため適当であった。一部のみなさんは恥ずかしそうに、大半は大声で唱和。まわりの花見客は何事かと注目。喉を暖めたところで、小さなトラメガと地声を張り上げて歌いながら、のぼりをはためかせて有志6名で出発した。最後尾には台車。若者もいたが自分も含めておっさん度が高い。かなりの異形の集団である。が、いきなり隣の団体からお菓子などが投げ銭的に飛んできた。これは幸先がよい。歌に力が入る。そうすると、まだ4時前で帰るには早い時間でもあるはずだが、次次と声がかかる。おつまみやお菓子、ビールなど。袋にどんどんとたまっていく。逆サンタクロース状態である。すばらしい。花見連帯。とはいえ、けげんな表情な方も多くいる。それは仕方ない。「花見もそろそろあきてきた」とか「お金もついでももらいたい」とかいい加減な歌詞も付け足した。異国の人たちの集まりでは「これ持っていって」と言われる。しめされた先には、酔いつぶれて毛布がかけられた人のくるぶしが見えた。「俺ももらいたい」とカタコトで言ってくる方もいた。「じゃあ、一緒にやりましょう」と誘うと「いやぁ、ちょっと」。すかさず、隊員が「これ差し上げます」ともらったばかりのビールを進呈。すばらしい。花見連帯。こうして、初回のもらい隊の出陣は大成功であった。副次的な効能として、私たちのところまで食べ物・飲み物を持ってきてくれる人も続出。その度に拍手。盛り上がってくる。隣の団体がひきあげる時に、アルミ缶ももらう。すると、次から次ぎへとあまったツマミや自家製漬け物などが差し出される。拍手。さらには、一人の若者が自分の毛糸の帽子まで脱いでくれようとする。完全に酔っぱらっている。彼は「愛と平和」と叫んだ。すばらしい。花見連帯。 約1時間後、少し暗くなり、帰る人たちも目に付きはじめた。そこで、第二次Y公園もらい隊6名が歌いながら出発した。しかし、方向を誤ったらしい。私たちが陣取っていた周縁部から、まだまだ花見で盛り上がろうとしている中心地へ向かってしまった。群衆にまぎれてしまって、もらい隊のアピールが低かった。反応なし。きびしい。しかし、やはり適度に空いているところに戻ると、ぼちぼち集まりだした。酎ハイやお菓子、ソフトドリンク、手作り総菜の残り。第二次もそこそこの成功を納めた。そして、やはり副次的効能として、その後も食べ物・飲み物が集まり続けた。「今度からは手ぶらで花見をしよう」と隊員の一人は言った。たしかに、それで充分に花見ができるような気がする。 最後に通りがかりの酔客にのぼりを奪われるという珍事が発生。隊員の一人がすかさず取り返したが、こうした負の反応が起こるのも、もらい隊の一面であるかもしれない。 少なからぬ野宿者たちはきっちりと公園のゴミ捨て場から飲食物を得ている。もらい隊はそうしたことをベースにしつつも、積極的に相手からもらう=引き出すことを試みたものである。 そして、いつの日にか、近隣の商店街でもらい隊を野宿者中心にして、やってみたい。それこそが本番だと思う。積極的に自分たちをアピールしながら、今までそれほど強くなかった地元との結びつきが深まれば楽しいにちがいない。 #
by isourou1
| 2017-04-06 22:03
| ホームレス文化
この公園の名前を冠した新聞をIさんと発行している。それが10号になった。1号目は2013年の秋でずいぶんと昔だが、最近は1、2ヶ月に1回ペースで出している。内容は、テント村を中心に近隣公園などでの出来事。多くは、管理側との闘い、やりとり、などである。この新聞の特徴の1つは、その発行部数の少なさである。対象をテント村とその周辺で寝ている人に限っているために、40部くらいしか作っていない超ローカル新聞なのである。 「小川さん、新聞もらえる?」とテントなしで寝ている人が急にぼくを訪ねてきたりする。また、配っていると「お、新聞?」といわれたりもするくらいは定着してきた。 この新聞をはじめるまでは、ずいぶんと長いためらいの時間があった。主な理由は2つあって、新聞を作って配るという行為自体が、関係性を作ってしまうという懸念があった。有意の情報を持つ人から、情報を持たない人に呼びかけを行うという関係になってしまう。さらにいえば、支援組織が定例の新聞を出していて、テント村などにも配布することもあったので、新聞出す人=活動家支援者、新聞を受け取る人=野宿者ということに類似してしまうという危険性があった。ぼくたちは、1テント村住人として存在するのが理想だったのである。もう一点は、テント村の中には管理側と仲良くしている人がいて、そのような人から情報が抜けてしまうのが気分良くなかった。というより、そういう人に新聞を渡すかどうかを考えるのが面倒だった。管理側と仲良くする、といっても、自分の小屋を守るための戦略だったり、他の住人に対し優位を示すためだったり、単に話し相手がほしいからだったり、それらが混ざっていたりと様々であった。 新聞を出してみてわかったことは、いずれにせよ、管理側には渡るということだった。はじめから見られても問題がないことしか書かないし書けない。それは、このブログでも同様である。管理側が熱心な読者であることは自明なことなので、書けることは大幅に制限されている。これは、そういうものと思うしかない。 関係性の問題は、見切り発車になった。東京にオリンピックが決まって、憶測情報が流れる中で、少しでも正確な情報を知らせたいと思った。また、追い出しムードが進む中で、つながりを作って闘う気運を作らなければ、ここで暮らすことが難しくなると判断した。 その結果、もともと活動家みたいに思われていた部分はあったのが強化はされたと思う。誰かが活動家みたいになって、その人に闘うことはまかせよう、みたいな形になるのは不幸なことだ。生活すること、居ること、が闘いの基本であって、その延長の中で具体的な闘いの方策が生まれるならば、ある意味ですべての人が活動家である(もしくは誰も活動家ではない)。ぼくたちがテントに住んでいることを知っている人たちの中で新聞を作っていることが、そういう意味で重要なことだと思っている。 テント村の一人が、競馬予想を掲載したい、と言ってきたことがあった。ぼくは、それもいいな、と思ったのだが、他の住人が、これはまじめな新聞なんだからそういうのはダメだ、とそれこそマジメに反論したために、なしになった。競馬予想はともかく、そういう風に広がっていくならけっこう楽しい。 #
by isourou1
| 2017-03-12 23:22
| ホームレス文化
1月の半ばに2、3日関西に出かけた。新今宮駅の近くにある友人らのシェアハウスに泊めてもらっていた。新今宮の南に広がる一帯が「西成」「釜が崎」と呼ばれている日本最大のドヤ街である。友人宅は2階建ての一軒家だが、売春宿~無認可保育所という数奇な命運をたどっているらしい。目の前の道が行き止まりのせいもあるのか破格の賃貸料だった。友人宅周辺のせまい路地に立ち並ぶ木造家屋や長屋に対して、頭上高くそびえる無機質で真新しい高層ビルは、脅威のようでも、間が抜けているようにも見える。 釜が崎を訪れたのは10年前になる。路上で寝ころがっている人、ほっつき歩く野良犬、雑貨と呼ぶのをためらうような雑物が並んでいる路上フリマ(通称泥棒市)、公園のまわりに並んだバラック屋台、公園の中に設置された野外テレビとそれを突っ立って見ている人々、怪しいものをさばいているようなチンピラ、それらが渾然となって発するエネルギーは、焼け跡~闇市の戦後期に一気に飛ばされるようだった。しかも、1つの町全体がそうなのだ。野良犬がたくさんいるという時点で、ほかの町ではありえない解放感がたしかにあった。 今回は、釜ヶ崎で炊き出しをしている友人が案内してくれた。町の肌触りが以前と微妙に異なっている。一緒に歩いた関西出身のIさんは、ヒリヒリした緊張感がなくなったと言っていた。たしかに、独特の磁場が薄れている感じがした。午前中だったせいかもしれないが、よっばらいの姿があまりなく、三角公園で1匹見かけた以外に野良犬もいなくなっていた。三角公園の小屋も激減していた。三角公園は、週2回の炊き出しや夏まつり、越年越冬などが行われる釜が崎の一面を象徴するような場所だ。公園の片隅には、炊事用のかまどが4つ並んでいた。まだ薪を使っているという。たき火が出来るというのは重要なことだが、東京の公園では管理が厳しくて難しくなってしまった。あと、終戦直後の風景の中でしか見たことがなかった街頭テレビもまだ健在だった。 つづいて、四角公園に寄った。友人らと異なる団体が毎日2回配食を行っているらしい。そして、小屋もいくつかあって、番犬のような犬がこちらを見ていた。三角公園にしろ四角にしろ、行政的な正式名称を誰も使っていないことも面白い。 以前は小屋があったという高い金網に囲まれた公園は、バスケットコートがあるだけでガランとしていて、夜間は施錠していた。 その後に、あいりん労働福祉センターに行った。朝5時から仕事だしが行われる1階には台車に載せた荷物が散在し、おっさんたちがたむろしている。2階は、段ボールをしいて眠っている人たちがいた。夕方になるとシャッターが閉まって追い出されるとのことだが、雨風のしのげて横になれる場所があるのは素晴らしい。しかも、とにかくでかいのだ。コンクリートで作られた巨大戦艦のような佇まいだ。しかし、このセンターも再開発で解体が決まっているらしい。ショッピングモールの一角に入ったりしたら、たむろしたり寝たりは出来なくなるだろう。 センターから出て、前の通りを見て愕然とした。「泥棒市」が一掃されていたからだ。単なるのっぺりとした普通の道になっている。そして脇にある高架下の塀には、きれいで丁寧なウォールペィンティングが描かれている。海外からもグラフィティライターを招待したらしいが、このようなリーガルウォールをグラフィティと呼ぶ気にはならない。絵の巧緻ではなく、法や警察との敵対の中で場所を獲得する緊張と自負こそがグラフィティの存在感を決定しているはずだ。この企画に関わっていたのがシンゴ西成という地元出身ラッパーだが、商店街の中に「負けない」とのメッセージとともに、自身のどでかい顔写真の看板を掲げていて嫌な感じがした。 花園公園も見に行った。昨年、公園内外の2軒の小屋が強制排除されたところだ。以前は、たくさんのブルーシート小屋が建っていたことを記憶していただけに、腰がくだけそうになった。すっかり何もなく、終日施錠していて誰も利用できない。釜が崎の変化に次第に気分が重くなってきた。 最後に、沖縄料理屋に立ち寄った。友人がおすすめの5名で満員の小さな店だ。もともとは四角公園周りの屋台だったが強制撤去されて移転したのだという。ビールも焼酎も沖縄そばもゴーヤチャンプルーも全部500円。酒類は高い気がするが、勘定が面倒だからだろうというのが友人の推察だ。3人がソバ、ぼくはチャンプルーを注文した。小柄のおかんが小鍋でソバをゆで始める。ぼくには、さといもの煮つけを前菜的に出してくれる。と、一人の酔体のおっさんが店に入ってくる。「おかん、ビール」「おまえに出すような酒はない。帰れ」とおかんがぴしゃり。おっさん、どこかに消えてしばらくして現れる。おかんに3万円手渡していた。おそらく、ツケなのだろう。まだあるらしく謝っていた。ビール飲みながら「若い人がいるから、相手してくれないやろ」などとおっさんは言って立ち上がる。「おい、全部のまんかい。ビールが泣く」「一口のんだがな。ビールなんて泣きはせん」。おかん、しばし沈考のあと、「そうか。はや帰れ」と言うなり、いきなり飲みかけのビール瓶を奪って、ぼくらの前に置いた。おっさん、退場。チャンプルーはおいしかった。スパムもたくさん入っていた。ごはんも豆ごはん。サービスで芋の煮付けも再びくれる。 次のおっさんは紙袋をテーブルの上に置いた。「それ、何?」とおかん。「みんな薬や」。すごい量である。「はや、死ね」とおかん。さすがに言い過ぎではないかと思うが、おっさんはあまり気にしていない様子。「今、医者いってきたところや。そのあと○○屋(立ち飲み屋らしい)によってから来たんや」「なんで、まっすぐ帰らん」とおかん。「おかんの顔を見にきたんや」「おまえに見せる顔などはない」「まぁ、見るほどの顔じゃないけどな」「何ゆうているの。若い人も来てくれてるわ」とおかん。その後、このおっさんはおとなしくビールを飲んでいた。おかんは、我々に対しては「なりたいものになったらいい。大臣でも何でもなったらいい」などと言っていた。また、Iさんとの結婚についての問答では「女は一人がいい」と断言。満腹になったわれわれが立ち上がるとおかんは「また来てな」と笑顔で小さく手を振った。かわいらしい感じだった。うーん、さすがにツボを心得ている。ぼくの重苦しい気分は霧散していた。友人の話だと、いくら飲み食いしても「あんたらから受け取る金はない」と支払いを受け取ってくれないこともあると言う。資本主義を超越した空間だ、と笑いあった。 釜が崎の変化は大きく、これからも加速していきそうな情勢だった。友人の話では、街の管理は野良犬に対する苦情から始まったそうである。飼い主を特定し、野良とみなされた犬は駆除された。ホームレスに対する排除も、その発想の延長上にないとは言えないだろう。焚き火にしろ、グラフィティにしろ、ワイルド(野生)を「安全」なものに馴致する欲望が都市を変化させているのだ。それでも、それを食い破るような力の片鱗をおかんに見て、ぼくは少し励まされた。
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by isourou1
| 2017-02-13 00:03
| ホームレス文化
バサっとテント近くで物音がした。犬の小さな鳴き声が遠ざかった。深夜12時すぎ。きたな、と思ったぼくは、懐中電灯片手にテントを飛び出し自転車に乗った。指が切れるほど寒い。眼圧を高めて見回すが、公園にも門の外にも人影はない。 今朝のことである。テントのわきに2、3日おちていたビニール袋を取り上げてみた。あんパンか何かが入っているようだ。カラスがくわえてきたのかもしれない。しかし、もう1つ、前から落ちていた袋を取り上げて、気がついた。あれだな。2年半前から、1つのテントの目がけて執拗に捨てられてきたというあれ。縛られたビニール袋をあけてみると、紛れもなく枯れ葉にまみれた犬のフン(みたいな)ものだった。それほど臭くはない。このような正体不明な悪意を投げつけられると、気持ちが落ち着かなくなるものだ。最近あったいろいろな出来事が気になってくる。かごの蓋に使っている段ボールの位置が、風のものとは思えない変な場所に置かれていたり、瓶のキャップが外れていたりして、微妙に変だと感じたことが、心にせり上がってくる。それらが無関係だとしても、神経が過敏になり不安になるのだ。このような悪意を持って生きている人間がいるということ自体によって、自分を支えている生への信頼にひびが入るのを感じる。しかし、おそらくは人を傷つけることに喜びを感じたりする人間が一定数いると割り切った方が実際的なのかもしれない。誰もがダークな部分を持っているが、それを乗り越えようとするのではなく、それだけを栄養にして生きる人は朝の光を穏やかに感じたりすることもないのだろう。 「相手は糞にまみれて生きているわけよね。かわいそうな人だなーと思ってね」とは、積年フンを投げられてきた人の言葉だ。去年の暮れからなくなったそうだから、標的はどうやらぼく(のテント)に移り変わったらしい。彼は、投げられる人よりも投げる人が悲惨だ、とも言っていた。そのとおりだと思う。ついでに言えば、そんな人間に飼われている犬も悲惨だ。 どうせ、しばらくは続くのだろう。ぼくは、相手を研究することにした。そう思うと何か気分が積極的になってきた。すでに分かったこともある。正体をきっと明らかにしてやるつもりだ。
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by isourou1
| 2017-02-09 01:40
| ホームレス文化
はじめて彼を見たのは、とある公園で夜間施錠を阻止するために集団で寝ていた時だ(ちなみに、今もダンボールハウスに半身入りながらキーボードを打っている)。 見たことがない参加者が献身的に段ボールを運んだりしている。若く見えるしボランティアの人なのかなと思った。去り際も折り畳めそうな小さい自転車に乗っていた。野宿の人は自転車を持っていても、安いし物を積むことが出来るから10中8、9はママチャリである。 しかし、彼は渋谷に来たばかりの野宿者だと他の人から聞いた。ちょっと心配になった。数日後、彼に会った時に聞いてみると、1年ほど川原で暮らしていたとのことだった。それなら、大丈夫。 彼はぼくについてもけっこう知っていた。また、同じテント村のIさんのことも雨宮処凛の本で読んで知っていた。時間をつくって、彼の話を聞いた。 実家で父親の会社で働いていた彼は、母親の死をきっかけに家を出た。それから10年くらい映画を見たりしながら賃貸アパートでひきこもっていた彼は、ついに貯めていたお金を使い果たした。そして、近所の川原に小屋を作ることにした。その際は、坂口恭平さんの本にでてくる小屋を参考にしたそうだ。ホームセンターから建材などを購入し、1ヶ月くらいかけて作っていると、町役場の人が注意にきた。川向こうの高級マンションの人からの苦情らしかった。それで、すでにテントを張っている人の横に移動したそうだ。 その小屋の写真を見せてもらって驚いた。思ったより大きかったからだ。緑の芝の上に真新しいブルーの小屋がポツンと建っている。 ここで暮らした1年間、役場がこなかったばかりか誰からも声をかけられなかったという。夜にこっそり帰ってくるような生活だったらしいが、少し不思議だ。 しかし、昨年夏の台風による増水によって、小屋は流された。あわててリュック1つを持ち出して逃げるのが精一杯だったという。思い出の品とともに小屋は一瞬で流されてしまった。 さらに、新たに張ったキャンプ用のテントが、3ヶ月ほどしたある日、忽然となくなった。河川管理の事務所が持っていったのではないかと彼は推測しているが、証拠があるわけではない。交番に被害届けを出そうとしたが、住所がないからと断られたそうだ。そんなことをわりと淡々とした口調で彼は語ってくれた。そして、炊き出しなどで生きていけるのではないかと真冬の12月に彼は渋谷に出てきた。 生保とか就業とかは考えたことはないという。小屋については、作らないと後悔すると思ったそうだ。 ぼくは、10年前くらい、高い家賃を払えない、あるいは、払うのがバカバカしいと考える、そして、社会が強制する自立だとか一人前だとかの規範に乗ることができない、あるいは、乗ることがバカバカしいと考える、そういう若い人たちがはっきりした層で出現して、従来の野宿者層と混じりあっていくような状態を夢想していた。それが所有の感覚を含めて、社会の枠組みを更新していけばおもしろいと思っていた。しかし、実際は、そのような人たちは狭いネットカフェに押し込められ、就労支援の隘路を歩まされる一方で、行政がテントを新たに作らせないし排除するという、全体としては秩序強化の方向に社会は動いてきたと思う。しかし、それでも、彼のような存在によって、ぼくは以前の夢想の遠い(しかし現実の)反応に出会ったような気持ちになった。そして、そのような人たちが潜在的には一定数いること、そしてそれらの人たちが社会に対する違和感を持って(野宿に限らず)何をするのかが重要であると今でも思っている。
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by isourou1
| 2017-02-06 21:48
| ホームレス文化
昨年末から年始にかけて、あわせて10日ほどダンボールハウスに泊まっている。 渋谷駅近くの公園の夜間施錠をさせないために泊まっているのだ。 ダンボールハウスで泊まったことは相当に久しぶりなので新鮮ではある。はじめの数日は寒さ以上に慣れない環境のために、あまり眠れなかった。心中に悩み事があったり、神経が高ぶっていたりすると、眠れないというのは普段でもあるが、環境が異なるとそのしきい値が下がって、より眠りにくくなる。いわゆる枕が違うと眠れないというやつの極端なバージョンである。そのおかげで、明け方のアルミ缶出し(業者の引き取り)の活気ある風景を見れたりもした。3日目くらいから慣れてきて眠れるようになった。ハウスが少しずつ改良されて寒さが気にならなくなったためでもある。一緒に寝ている人たちの中には、ハウスを作らず段ボールを敷き布団に毛布を数枚かぶっただけの人もいる。段ボールハウスに入ると襲撃が怖いという人もいる。そのために、ハウスを作っても完全には密閉しない人もいる。ぼくの場合は、防寒を優先して、完全密閉である。段ボールは都会であれば落ちているだろうから、テントを持たなくてもおよそどこでもオールシーズン眠れるということでもある。これは、けっこう心強い。段ボールハウスづくりの流儀は、ぼくの場合は以下である。 ・段ボールは、自分の胴まわりを考えて適度の大きさを4つ確保する。 ・大きさは多少ちがってもどうにかなるが、同じものがベスト。 ・段ボールは、アパレル関係が大きさも適度で、汚れていない。 ・隙間をなくすためには、ガムテープが必要。(やすいのでよい) ・1つの段ボールは開いて、ハウスの下にひく。もしも地面が濡れているようならば、ビニールシートもひいた方がいいが、濡れてないところを探す方がよいと思う。 ・段ボール3つは連結する。連結した側面部をガムテで固定する。連結部分を調整して長さを決める。 ・1つの連結部分は出入り口。脚部の連結部分は、ハウス内に毛布や寝袋を足下まできれいに敷くための作業窓として使った後、ガムテで閉じる。 ・出入り口は、すきまが出来やすい。ここの処理が一番難しいが、多少のすきまを気にしないのならばそのまま。完璧を目指すならば、寝る時に内側から思い切って閉じてしまおう。 ・段ボールの大きさが異なる場合は折り曲げたりして隙間をなくす工夫が必要。 ・冬の明け方は寒い。寝入りばなは、毛布や寝袋などで暖かすぎるくらいに。 渋谷の野宿界隈では段ボールハウスはロケットと呼んでいるらしい。夜間飛行するというイメージだろう。ぼくは、繭か巣の中にでもいるような気分になる。リラックスしなければ眠れないから、その感じは悪くない。 だから、市民は、たとえ遊び心であっても段ボールを絶対に蹴るな。一度、段ボールを蹴られた時、金縛りにあったように声が出せなかった。不意うちをくらうと反応できないものだ。 ダンボールハウスから顔を出す朝は、繭から出た虫や巣立つ鳥のように突然世界が開けるので、なんとなく驚異を覚える。足早に出勤する人たち。公園の掃除をするバイトさん。うろちょろする鳩。ぼくと同じように寝て寒そうに立っている人たち。みなさん、おはようございます。
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by isourou1
| 2017-01-31 23:10
| ホームレス文化
頭が痛くて寝ていた。疲れると頭が痛くなるのは、ここ数年来のことだ。様々な出来事の中であまり気が休まらず、疲れが累積しているのだろうが、今日は2つの出来事が重なった。それぞれはバラバラのようだが、内的には深くつながる喪失感があったことに寝ながら気がついた。
1つは、近くにあるテントが壊されたこと。いつもながら精神的に負荷がかかる出来事だ。少し出かけた間の突然のことで、杭を打ち込む金属音を聞いてかけつけてみると、すでにテントはゴミの車に積み込まれ、センターの職員らがロープをはる作業をしているだけだった。聞いてみると、本人の承諾の上です、と言う。住んでいたのは、穏やかな人だったが、あまり近隣と交流はしていなかった。ぼくも、用件がある時に、たまにテントを訪ねるくらいだった。必要最小限の荷物しか持たずに暮らしていくタイプだった。どうやって生計をたてているのか分からなかったが、たんたんと生活している感じだった。最近は、自分の年のことを言うようになっていた(見た目より年は取っていて、たしか70才を超えていた)。入院したという噂を聞いたと近隣テントの人が言っていた。一言、出ていく時に言ってほしいなぁ、とその人は嘆息したが、救急車で運ばれたのかもしれない、という話になった。 もう一つの出来事は、ぼくのテント脇に荷物として置いてあるスケッチブックが水びたしになっていたことだ。プラスチックケースの中でゴミ袋に入れて保管していたのだが、ケースの割れ目から雨水が入り、袋も小さな穴があったのか役に立たなかった。自分の絵、Iさんの絵、絵を描く会での様々の人の絵が300枚くらいダメになった。一部は乾かすことで復活するかもしれないが、絵の具がにじんでいるもの、カビが生えてしまったものは元通りにはならない。2010年頃のわりといい絵が多い。他人の絵に関しては申し訳がたたない。これらの絵は、すべてテント村の記録/記憶となるものだ。特に、テントが失われ、そこに住んでいた人がいなくなれば、残るのは記録/記憶しかない。そういう意味でも、かけがいがないものだ。 テントが撤去されたことと絵が失われたことはぼくの中で結びつくような喪失なのである。 #
by isourou1
| 2016-12-23 12:07
| ホームレス文化
公園の門からテント村に向かう割と急な坂を登って、ぼんやりとTさんが現れた。この坂の街灯は登りきったところにあるだけだから、明かりに近づかないと姿がはっきりしない。「お、Tさん」とぼく。「どこいくの?今から仕事?」とTさん。Tさんは独特な早口で聞き取るのが難しい時がある。「ちがう、ちがう。銭湯」と言って、ぼくはジャンバーのポケットから銭湯の回数券を出してTさんに見せた。ちなみに、生活保護をとっている元テント村のおじさんから貰った券だ。「風呂、何時まで?」とTさん。「近所のは12時までやっているけど、10時半に行かないと入れてくれない」とぼく。Tさんは、さっと腕を振りあげて時計を見る。ちょうど10時半だ。「遅いな。明日行くよ」とTさんは言って、自分のテントの方へ向かった。
お湯に浸かりながら、Tさんなら10時半すぎでも入浴を断られないかもと思った。70歳近い現在まで肉体労働を続けているTさんは、たぶん早風呂だ。長風呂のぼくは、番台のおばさんから警戒されているのだ。あと、風呂の時間を尋ねられるのは随分と久しぶりだなぁ、と思った。今年初め頃に、テント村近くにテントを建てて、東京都から追い出された人に質問されたことはあったが、それ以前になると思い出せない。 それはつまり、テント村で新しく暮らし始める人がそれだけいなかったということだ。 そう、新しい住人が11月末から3人も増えたのだ。一昨日、10人ほどで協力して3人分のテントを設営し、今日はテントの上にブルーシートを張った。作業には、テント村住人も何人か参加した。一昨日は、東京都の役人が立ち会った。つまりは、東京都がお墨付きを与えたテント設営で、昨今の状況下では実に画期的なことだ。 3人は国立競技場に近いM公園に住んでいたテント生活者たちで、新国立競技場建設を巡る追い出しに3年間に渡り抵抗してきた。2回の園内移転、JSCによる法的根拠のない強行な排除、土地明け渡し仮処分による強制排除、近隣公園への自主的な移転、移転地の廃園、といった様々な苦難と先行きの不透明さを含んだ長い闘いであった。週一回ペースの寄り合い、度重なる交渉、窓口への押し掛け、マイク情宣、記者会見、そそがれたエネルギーは大変なものだ。その末に、東京都は手のひらを返したように代替地を認めた。M公園のテント生活者が長らく求めてきたことが実った形になった。 このテント村でも、人数が増えるのはいいことだと言う人が今のところ多い。今日は、3人と一緒に近所のテントの人に引っ越しの挨拶にまわった。すでにテント村になじみのある人もいるが、Tさんは比較的なじみが薄い。そのため、Tさんは風呂の時間を尋ねるようなところから新しく生活を始めようとしている。何となくワクワクするじゃないか。この3人によって、テント村も何らかの新しい風が吹くかもしれない。 もちろん、テントが張れていた場所がまた1つ(というか公園が)なくなるわけだし、追い出されたことには変わりはないので、喜んでばかりはいられない。さらに、まだ身の振りを決めていないままM公園に残っている方がいるという大きな課題もある。それでも、みんなで力を合わせてテントを作るのは、愉快な出来事であったのは間違いない。 *3週間ほど前に下書きしたもの。M公園に残っていた方も、すでに他の公園に代替地を得て移転した。 #
by isourou1
| 2016-12-23 12:04
| ホームレス文化
歌に対する苦手意識が消えない。まぁ、たしかに音痴なのであるが、歌がもたらす共有する感じが苦手な時がある。ぼくにとって、その最たるものは「君が代」だろう。でも、その共有が自分にとって心地よい歌もあるだろうし、また共有をはねのけ違いを突きつけてくる歌だってあるだろう。
炊き出しでキリスト教の聖歌をうたう団体がある。ぼくは参加したことがないが、みんなで唱和するところもあるようだ。義務的につきあっている人がほとんどだろうが、中にはそれが好きな人もいないわけではない。もちろんクリスチャンやその傾向にある人も野宿していたりする。また、ただ歌うのが好きという人もいる。その代表的な人はケンさんである。 実は、エノアールにもエノアールの歌というものがある。メロディは「オーシャンゼリゼ」で歌詞はエノアールにたまに訪れる女性がつくったものだ。 「街をとおり林をくぐり 光と影のさす空き地へ ここにいれば誰かと会える こんにちはと言える相手に オー カフェエノアール オー カフェエノアール いつも誰かここにいるわ あなたとお茶を飲むエノアール」(以下略、3番まで) ケンさんが手書きで歌詞カードを10枚ほどつくって保持しており、花見や正月などに持ち出してきては、みなで唱和している。これもやはり恥ずかしいが、仕方なくぼくも歌っている。先日、フランスからのお客さんが来た時にも、ケンさんは独唱し「ブラボー」と言われていた。 さきほど、テントの外で「お弁当を持ってきました」という声がした。チャックを開けると目の前に中年男性が立っており、ビニール袋ごとぼくに差し出してきた。男性は「前にお会いしましたね」と言った。たしかに、前にもお弁当を持ってきてくれたことがあった。いつも1つだけ持ってきては話しかけてくるということで、付近のテントの人の間でも少しだけ不審がられていた。「駒沢公園の近くに住んでいるんです。前は、駒沢公園でもホームレスの方がいて、こんなことをやっていたんです」と言った。そして、紙を差し出してきて「一緒に歌いませんか。贈る言葉です。なんだったら一人で歌いますが」。紙には歌詞が印刷されてあった。「くれ~なず~むまちのぉ」と男性は性急に歌いだした。それを歌うのも聞くのもとても耐えがたい気がした。ぼくは「歌はいいです」と言った。男性は紅白歌合戦の出だしで鐘1つをもらった参加者のように歌いやめた。そして、テントの中をのぞいて「本ですか」と立ち並んだ背表紙を驚いたような顔で見た。ちょっと嫌だなと思って「では」と言うと男性は急いで帰った。それにしても一緒に歌おうという発想は一体どこから出てくるのだろうか。ぼくは歌は苦手だし突拍子もなく始められても困るのであるが、そこに励ましや気持ちの共有を込めているのだろうという予想はつくのである。 それで思い出したのは<世界の希望合唱団>である。これは、新宿で野宿していた女性が立ち上げた合唱団だが、参加したことはないので詳細は不明である。彼女は、突然、初対面の人に「NPOをやるので事務局長やりませんか?」とエノアールで切り出すような感じの人である。詳しいことは忘れたが、そのNPOはアルミ缶集めと町内会の自治活動と子どもの健全育成を組み合わせたようなよく分からないものだった気がする。NPOの趣意書を見せて、どう思いますか? というので、町内会は野宿者のアルミ缶集めは目の敵にしているだろうから難しいのでは、とぼくは意見した気もするが、彼女は、政治家や町内会会長は知っているから大丈夫と言っていた。 彼女は、テント村周辺で合唱団のチラシを配布した。一回目のチラシの文言は以下である。 「世界の希望合唱団 みんなで楽しく歌ってどんな人にも一層の健康を創り私たちだけで出来る勢いで歌いましょう=世界平和を私たちの手で実現しましょう 繋がって繋がって繋がりましょう 世界の希望合唱団のメンバーたちが一生懸命歌って 私たちの繁栄に導く くもの糸が繋がりました 音楽は人の生活に安らぎを与える 音楽=健康 音楽によって健康になる 音楽によってすべての人に繁栄が築かれ その繁栄はみんなのものです 1人より多くの皆様方の参加をお待ちしています」 次にチラシを持ってきた時に「何人くらい参加しているのですか?」と聞いてみた。打ち間違えにしても、チラシも「一人より多く」となっていたし、おそらくは誰も参加しないだろうと危惧していたのである。「7、8人」と彼女は答えた。意外と参加していることに少し感心してしまった。2回目のチラシは文言がより簡潔になった。 「世界の希望 みんなで楽しく歌ってどんな人にもいっそうの健康を創りホームレスだけに出来る勢いで歌いましょう=世界平和を実現しましょう」 もちろん参加しなかったが、チラシはテントの目のつくところに貼っておいた。悪意の欠けた思いこみの突っ走りが輝いているような気がしたからだ。そして、たしかに、しばらくはそのすっとんきょうな言葉からなにがしかの励ましが得られるようだった。 #
by isourou1
| 2016-10-24 19:21
| ホームレス文化
朝の7時頃だった。「テツオくんいる!?」との声が物音とともにテントの外から投げかけられた。ぼくが朝10時くらいまで寝ていることが多いのは衆知の話だ。声には、のどかさや朗らかさを含んでいて、どこかで聞き覚えがあるものだったが思い出せなかった。テントの前で手をたたく音がするので、仕方なくテントのチャックを開いて顔を出した。実際以上に眠たげな渋面を浮かべようとしながら。目の前には、ぼくの自転車とたしかに見たことある男が立っていた。「覚えている?」「ああ」曖昧な返事。「一緒にパン食べようよ」。「まだ眠いんだけど」。「丘のところで一緒に食べようよ。自転車かして。パン買ってくるから。コーヒー沸かしてて。丘にきてよ」。と言ってすぐさま姿が消えた。頭の総毛が白くなり、目の下に隈を作って顔色が悪かったが、声のどこか浮き世離れした調子は同じだった。たぶん、5年くらいは会っていなかったはずだ。
ぼくがここに住み始めたころ、ヒッピー的な一群の人たちがテント村にいた。当時、20代から30代くらいが主であったので、エコロジー・スピリチャル・ラスタファリズム・レイブカルチャー・仏教・スローライフ・ドラッグ・自然回帰・オカルトなどが、それぞれの割合で混然となったような、いわゆる管理社会をドロップアウトする青年の類型と偏差を示している観があった。ただ、管理社会への反発が男性性の誇示や保守的なジェンダー指向と素朴に結びついているようなところもあり、古くさい価値観も感じられた。そういうことも含め、ぼくはどことなく違和感を持ってはいたが、端から見れば似たような者であったかもしれない。あと、意外に美男子が多く、ホストクラブができるのではないかと言われていたほどであった。欧米人ぽい顔だちで優しげな彼は、そういう中の一人だった。ジロウさんと呼ぶことにしよう。 普段はおっとりしているジロウさんだが暴れてしまうこともあるようで、精神病院に入れられていたという話を本人から聞いたこともあった。お金持ちの子息らしく、そういう意味での苦労はないようだったが、精神的にしんどそうな時や向精神薬でぼんやりしている感じはあったと思う。ミスターNのヒーリングをよく受けていた。 忘れていたことを少しずつ思い出しながら、お湯を沸かしながらジロウさんが帰ってくるのを待っていた。しかし、1時間以上をすぎてジロウさんは帰ってこなかった。そもそもこんな朝からパン屋は開いていないだろうし、あるいは、ぼくが完全に目覚めるだろう時間までどこかで待っているのかもしれない。一応、丘を見に行ってみると、頂上にキャンプ用の布製のイスがおかれてあり、横に赤い傘がひっくりかえっていて突き出た柄の部分から花飾りのようなものが垂れていた。リュックも放置してあった。イスには、「荷物を置かないでください。撤去します」とのセンターの警告が貼ってあった。すぐに撤去することはないだろうが、このままでは荷物が不用心である。しかし、勝手に移動させるのはどうかと思うし、面倒な気もして放っておいた。 久しぶりにテント村に遊びにきた岩さんと話していると、朝早くからぼくがテント前に座っていることが珍しいのか、普段立ち寄らない人が話しにくる。そのうちに、テント村の絵描きさんであるKWさんが、サムイに下駄ばきで園道からぼくのテントに向かう段差を降りてきた。ぼくは思わず「滑りやすいから注意してください」と言った。実際、靴でもよく転ぶのである。KWさんはこちらをのぞいて、口に指を当てて「シィ」という顔をしてきびすを返した。キャンプ用イスに後ろ向きに座っていた岩さんの姿を認めて立ち去ったようだった。一体、何のことか分からなかったが、謎なことはよくあるので、いちいちは気にしない。 9時過ぎにセンター職員と警備員がまわってくるので、一応、丘の上の荷物を気にして行ってみた。職員に「知り合いの荷物だから。買い物に行ってくると言って出ていったから」と言うと「小川さんの知り合いなの」と少し安心した様子だった。テントに戻る途中でKWさんに会った。 「いえねぇ、寝ている時にですよ、深夜、表の鐘をたたく人がいてね。火をかしてくれって。火っていっても、バーナーですよ。断ったんだけど、明日一緒に飲みましょう、って。誰だか分からないし、14・15年前にテント村に住んでいたっていうんですよ。小川みつお、知っているかと聞かれたから、たぶん小川さんのことだろうと思って知っていると答えたんですがねぇ。それで気がついてみると、折りたたみのイスがなくなっているんですよ。耳は遠いんですけど、感覚は敏感だから部屋に入ってきたら分かるんですよ」「寝ている間になくなったということですか」「そうなんです。朝起きたらないんですよ。ふつうは、気がつくんですけどねぇ、不思議だなと思って。素人じゃないですね。別に、あんなイス、故障を修理してあるようなやつでいらないんですけどねぇ。さっき、小川さんのところに話にいこうとしたら、彼がいたようだから。こんな話しをもちこんで、迷惑になっちゃうだろうと」「ああ、それは誤解と誤解ではないところがありますよ」とぼくは言った。「座っていた人はちがう人ですが、夜訪ねてきた人は、たしかにぼくの知り合いです」「そうですか。お金はそのままあったんですけどね。ろうそくとぶどう、がなくなっていて。水場のそばのお盆の上にろうそくはあったんですよ。ぶどうも房以外はあったんですけど。まぁぶどうはご自分でお買いになったのかもしれませんし。でも、あんまり一致するものですから」「丘の上のイスがKWさんのものではないですか」「そこまで見に行ってはないんですよ」「一緒に見に行ってみましょうよ。こういうことははっきりさせた方がいいですよ」とぼくが言うと、KWさんはいったん断わり「彼、いるんじゃないですか」と聞くので「ぼくの自転車を貸りたっきりで帰ってこないんですよ。丘にはいませんよ」というと、自然と見に行く流れになった。KWさんはイスの色をモスグリーンと言っていて、さすがに画家だなぁと思った。そして、丘の上のイスもモスグリーンで、テープで修理した箇所もあり、KWさんのものであることは明らかだった。丘の頂上にあるイスは下界をへいげするための王座のような感じで安置されていた。ぼくたちは王座を瞥見だけして戻った。別れ際、KWさんは「彼に何も言わないでね。トラブルになるのが嫌だから」と言った。 13時からは毎週火曜にやっている「絵をかく会」だった。絵をかく会といっても、おしゃべりしている時間の方が長く、また絵を描かない人の方がたいてい多い。おしゃべりしていても、ジロウさんが自転車にのって帰ってきそうで落ち着かなかった。「絵をかく会」の常連たちに話すと、一人は「最悪のパターンだ」といい「自転車かえってこないんじゃない」。一人は「よく理解できないな」と言っていた。ジロウさんの発想はぼくにはなんとなく分かる気がするのだが、まずはジロウさんに質問すればいいと思うと気分が落ち着いた。15時を少し過ぎた頃だった。上半身裸で裸足の男がなぜか立ち入り禁止のロープを障害物競走のようにまたぎつつ、ぼくたちに向かって直進してくるのが見えた。自転車で現れるとの想定が外れて、一瞬だれ?、と思ったが、ジロウさん以外にあろうはずもなかった。ジロウさんは「ごめーん、遅くなっちゃって」と言った。ぼくが「自転車は?」と聞くと「丘に置いてきた」と答えた。ジロウさんは「みんな元気?」。みんなは顔を伏せ気味。ぼくがジロウさんに「話をしないといけないことがあるんだけど」と言うと、気さくな感じで「いいよ。なに?」と答えた。「丘の上にあるイスだけど。どうして手に入れたのか教えて」ジロウさんは少し困った顔になった。「KWさんだっけ、おじさんに貸してって言って、寝てたみたいだけど、借りた。ノーポゼション」「本人と話したんだけど、貸したつもりはないよ。黙って持っていくのはまずいよ」と言うと、ジロウさんはしかめっ面で歌いだした。「イマジン ノーポゼション」。胸のあたりに小さなギターを抱えたような手の形になっていた。声は少し悲鳴のようだった。ぼくは言った。「それをお互い了解しているならいいけど、成り立たないよ」。ジロウさんは「返そうにももうなかったよ、持って帰ったのじゃないかな、ははは」と言った。「他の誰かが持っていったのかもしれないじゃない」と強めにぼく。ジロウさんは慌て気味に「話しはそれだけ?今からおじさんのところに行ってくるよ」と立ち去った。少し後からぼくもKWさんの小屋に行ってみた。ちなみに、KWさんの小屋は、日本的の美意識が強烈に感じられる庵と呼ぶのがふさわしいテント村随一のもので、「ガイジン」さんたちがよく写真を撮っている。ジロウさんもそれが気に入って昨夜訪れたのかもしれない。KWさんの小屋に半身を入れる形で、ジロウさんが入り口に座っているのが見えた。KWさんが「集中しないといけないから」とジロウさんに言っているのが聞こえた。裸のジロウさんの背中ごしにKWさんに声をかけると「イスは事務所の人が持ってきてくれました」とKWさん。とりあえず無事に持ち主に戻っていたのでホっとした。ジロウさんは音もなく立ち去った。KWさんは絵筆を動かしながら「こっちも勝手に住んでいるのですから、ムゲにすることもできないから。でも、彼は目つきが普通ではないよ。もし何かあったら相談するから。一人で考えるよりはいいだろうからね」と言う。ジロウさんが遠くの方を歩いていくのが見えた。こういう時の身のこなしは素早い。 絵をかく会に参加しているムトウさんが、「小川くんの自転車がポーンと丘においてあるよ。本人はいないみたい。あれじゃ持って行かれるよ」というので、自転車を丘から持ち帰った。丘の頂上には布が敷かれ荷物も置いてあり、お香の煙がゆっくりとたゆたっていたが、ジロウさんの姿はなかった。今夜もここで眠るつもりなのだろう。 ジロウさんに悪意はみじんもないはずだ。自分の世界に生きているので、他人に悪意など持つことはできないのである。気持ちを予想することが苦手な人は、価値観の違う他人と折り合いをつけるのが難しい。深夜、この時間、ジロウさんは丘の上で、おぼろげに広がる星空を見ながら横になっていることだろう。 「イマジン ノーポゼション」(無所有を想像せよ)という追いつめられたジロウさんの素っ頓狂な歌声が、居心地悪くぼくの中にも刺さっている。ぼくからみたら悲劇的でも喜劇的でもあったようだった、その歌になりきれなかった悲鳴の一部は自分のものであった。 西表島の浜辺に小屋をたてて暮らしていたアルコール中毒のおじさんのことを思い出す。お酒を飲まないとジェントルなところがある人だったけど、どうしようもない酒乱で、人の網にかかった魚や罠にかかったイノシシを奪う泥棒として、周辺部落の嫌われ者だった。そのおじさんは、一定時間がたった魚や獲物は誰の物でもないというような考えを持っていた。おそらくおじさんは昔は共有され今は忘れられたルールを生きているだけなのかもしれなかった。つまりは、おじさんなりの「イマジン ノーポゼション」だったのだろう。しかし、想像することと現実はちがう。想像したことが現実になるのは、その場にいる人々に共有され、人々の関係の中に根をおろさなければならない。それは、地道で面倒な具体的なやりとり積み重ねだ。また、自らの理念や思想がどのような現実的な基盤に根ざしているかは自覚されることが少ない。無所有をいえるのは、それを支える制度やつながり(様々な意味の貯蓄、保険)があるためかもしれない。理念を共有しているかどうか分からない人との関係の中で、何かを実践するには繊細さが必要だ。そうでなければ、誤解を招くことだけのことである。無所有という実践は、自らが自らの肉体の所有をしている以上(オカルトにならずには)限界がある。所有をめぐる矛盾は終局的に解決できないということが重要で、解決できるという立場は暴力を生み出す。解決できないということを前提にして、はじめて話し合いや倫理や一時的なルールが生まれる。つまりは、他者との関わりが生まれてくる。所有を巡る実践は、現実の解毒という気休めを超えれば、常に他者との矛盾を突きつける棘のようなものでもある。 と書いた時(深夜3時)にジロウさんの声がテントの外から聞こえた。 「テツオくんいる?」「どうした?」と聞くと「散歩してた」という。「もう寝るよ」というと「分かった、明日朝にくるよ」。「朝っていっても、9時までは寝ているよ」というと「わかった」。「自転車貸して」というので「今日みたいなのは困るよ」というと「ごめんね、パン屋いったら閉まってて、携帯を充電しなくちゃいけなくて、とかいろいろあって」。「ぼくだって使うのだから考えてよ」「分かった。9時までに絶対かえす。今日のことは容赦して」声が遠のいていく。 *5日たったがジロウさんは戻ってきていない。 #
by isourou1
| 2016-10-10 01:17
| ホームレス文化
![]() ![]() といっても、採取して水洗いして干すだけだ。洗っている時に「俺も子どもの頃よく飲まされたよ」という人がいた。ぼくの親も裏庭のドクダミでお茶を作っていて夏にはよく飲んでいたしドクダミ風呂にも入っていた。今年は空梅雨らしく六月前半はそれほど雨が降らなかったので、わりと順調に乾燥してくれた。 エノアールでも出した。煮出さなかったので薄いお茶だったが、それなりにおいしいと好評だった。 もう少し乾かそうとしたのがいけなかった。雨なのに忘れていてすっかり濡れてカビが生えてしまった。梅雨に干すというのがドクダミの最大のネックなのだ。今年もドクダミ茶は幻に終わった。
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by isourou1
| 2016-07-13 19:02
| ホームレス文化
この半年ほど、エノアールにイシさんがよくいる。イシさんはこのテント村で色んな人の小屋を10軒近く建てた人だ。テント村において、小屋は自分でつくるのが基本だった。しかし、テント村の最盛期においては比較的お金に余裕のある人の小屋づくりを請け負う人たちがいた。それらの人の中には元大工さんで手間賃として一日いくらという感じで完全な仕事として作る人もいた。イシさんは左官を長くやられていたが大工ではなかったこともあり、初めの頃はお金を得るために他の人の家を建てたわけではない。体力もあり何でも器用に出来たイシさんは、テント村で暮らすようになってからも、銀杏拾い、アルミ缶集め、何をやっても上手にこなしていた。それで、小屋が崩れかかっているのを見かねて手伝ったりしているうちに、なんとなく頼まれるようになったようだ。拾ってきた材木やベニアを使っていたイシさんだったが、1軒あたり5万円程度のお金をもらうようになってからは材木屋で買っていたとのこと。材料費で貰ったお金の大半はなくなっていたようだ。試行錯誤の末に定まったイシさんの小屋スタイルは、6畳の日本家屋タイプで床上げして切妻屋根、玄関も窓(引き戸)もある。屋根のブルーシートは2重になっていて、その間を風が抜けるようになっていたし、壁のブルーシートは結露するから床から90センチほどはべニア板を取り付けた。職人的かつ実用的な細かい工夫がしてあるのがイシさん制作の小屋の特徴だった。イシさんから1つ1つの家について詳細な話を聞いているが、どの家についても施主からの感想は覚えていないと言っていた。イシさんの場合、むしろ工夫して作ることそのものに楽しみを見いだしているようだった。実は、最近イシさんによってぼくのテントもいろいろと改善されてきた。イシさんの場合、相談して作業するということはほとんどない。良かれと思ったら勝手に作業している。少しびっくりすることもあるが、それがイシさんの流儀みたいだ。ちなみに、ぼくのテントの水汲みや食器洗いのほとんどは現在イシさんがやってくれている。思いついて自分でやれそうなことはやる人なのだ。こういう感じでイシさんは自分の生活を築き、長きに渡ってテント村の形を作ることに結果として大いに貢献してきたのだった。しかし、ひょんなことから不在になった折りに、イシさんは東京都に自分の小屋を壊され(イシさんの建てた小屋はそれで全て現存しなくなった)、それから路上で暮らしたり入院したり施設に入ったりした。この半年間の流転はイシさんにとって不本意なことの連続であったと思う。仕組みの分からない不案内の環境で力を奪われ、だんだんに気力や自信を失いがちな様子である。体調も悪いせいもあって、エノアールでも横になっていることが多くなってきた。ぼくはイシさんとイシさんの作った小屋について小さな本を作りたいと思っている(作業がなかなか進んでいないが)。 小屋づくりといえば、実は昨年ギリシャでもやった。知人で演出家の高山明さんがアテネの演劇祭に呼ばれ、彼があちらのホームレスと作業するにあたって、ぼくに声をかけてくれた。アテネの街の複数箇所を巡るツアー演劇の一部で、ぼくたちの担ったのは新アテネ中央駅の構内だった。そこに地元のホームレスと小屋をつくって、観客がそのホームレスと小屋の中で対話するというのが高山さんの作品だった。 ギリシャといえば経済危機だ。演劇祭は5月で、EUとギリシャの軋轢が最高潮になる1ヶ月前くらいだった。街では廃屋や建設がストップした建物が目に付き、物貰いも大勢いた。新アテネ中央駅もほとんど完成しているにもかかわらず5年以上も放置されており、構内には放し飼いの犬たちがウロウロしている。たぶん捨て犬を駅の管理人が餌付けしたのだろう。街にも野良犬がウロついていたが、至っておとなしかった。田舎街のおおらかな素地に経済危機に起因する荒んだところが重なっているような、見方によってどちらにでも受け取れるような、そういう感じが野良犬の姿に象徴されていた。そういう二重写しのような感覚は、街に点在する古代遺跡と廃ビルの間にもあって、ギリシャの古代文明の威容を示す遺跡が同時に巨大な廃物でもあるように廃ビルと重なることで見えてくる。 一緒に作業したラブロスとスティリオスは、元ホームレスで現在は施設やアパートで暮らしている。ラブロスは大柄で太っていてブラジルからの移民。スティリオスは、締まった体格で少し神経質そうなギリシャ人。線路の小石を敷き詰めたホーム脇の空き地に小屋を建てることにした。ギリシャの太陽は容赦ない。午後1時から4時くらいまではシェスタの時間で商店も休み、大きな物音を立てると警官に怒られるという話だった。実際のところ、暑くて作業なんかやっていられない。駅の周囲には様々な廃材が放置・投棄してあって、それらをかき集めて小屋の材料とした。二人とも理想の小屋のイメージは、立派な家のミニチュア版みたいなものだった。スティリオスはレンガを使って壁を作ると言い出した(しかし、それは資材らしく駅側から許可が降りなかった)。ぼくは、イベント期間中のものだしもっと簡単でいいと思っていたのだが、そもそも家というものに対する根底的なイメージの差があるのかもしれなかった。スティリオスは柱を建てる時、掘った穴に柱を置き小石を周りに詰めることで固定した。ここは石の文化なんだなと感じた。彼は廃材とトタン板を使って、窓も玄関もあるしっかりとした小屋を黙々と作ってしまった。自然の素材で出来た小屋は、農地や浜辺に立っている作業小屋のような落ち着いた肌触りがあった。一方のラブロスはあまり器用なタイプではなかったため一緒に作ることにした。日本から持っていったブルーシートを多用し、ちょっとフニャとした感じの小屋になった。コンクリート壁をそのまま小屋の壁面にもしていたためグラフィティが部屋の装飾になっていた。ラブロスさんもそこが気に入っていた。主催者からイベント中ぼくにも参加してほしいと要望があったため、急遽、自分の小屋も作った。みんなで建てたため3時間で出来上がった。これらの小屋づくりは暑かったけど楽しかった。小屋には、やはりそれぞれの個性が反映されている。そして小屋の空間は次第に自分になじんだものに感じられてくる。とはいえ、夜になったらぼくはホテルに戻るし、あくまでもイベント用の小屋にすぎない。住宅展示場の家のような白々しさがある。ホテルで寝ながら、作った小屋でイベント後に暮らすことを夢想していた。高山さんも主催者に小屋を残すことを交渉したらしいが断られたとのことだった。新駅を囲むフェンスの先には、土管に住んでいる形跡や鉄道のトンネルに住んでいる人たちがいた。彼らと話す機会はなかったが、トンネルの人は石を投げられて怪我をしたらしい。小屋掛けするのは難しいらしくアテネではほとんど見なかったが、街の中央にあるオモニア広場では難民が雑魚寝していた。 ![]() アテネ郊外の高速道路の高架下にはロマ(ジプシー)の人たちがテントを張っていた。ぼくは子どもたちと絵を描いたりして遊んだが、すぐにカバンをあけて物を持ちだそうとするのには閉口した。割れた水道管から溢れる水で食器を洗い、たき火で調理をしていた。 場所をつくること、少しでも根を生やすこと、その様々な困難なあり方の中で小屋をつくることは、生活が立ち上がったような夢のあることだと思う。 #
by isourou1
| 2016-06-05 01:33
| ホームレス文化
![]() 明治公園に住む野宿者住人に対して、国立競技場を巡る工事によって追い出しが始まったのが2013年10月。それから、住人と<応援する有志>は東京都やJSCに対して度重なる交渉・抗議を行ってきた。都の要求にそった形での2回の園内移転、JSCとの7回の団体交渉をへて、一応は話し合いを継続させてきた。しかし、昨年7月の国立競技場設計白紙撤回後は、都やJSCは姿勢を硬化させた。今年1月27日にはJSCが大量の警察官警備員などを従えて、一方的に公園の出入り口やトイレの封鎖を行おうとした。それらは即座に跳ね返すことが出来たが、活動家の一人を逮捕した上で、3月14日付けでJSCは土地明け渡しの仮処分命令=強制執行を東京地裁に申し立てた。東京五輪に間に合わなくなるというのが申し立ての理由で、五輪による排除のあからさまな表明だった。 1月27日以来、<応援する有志>は倉庫や雨天時に話し合えるスペースなどを新たに作った。債権者(JSC)が求めれば、土日のみならず深夜でも24時間、強制執行は執行官が行うことができる。また、裁判所は債務者(野宿者住人や代理弁護士)に対しては保全命令や執行命令を強制執行後に送ることが出来る。つまり、抜き打ちで排除が出来る仕組みになっているのだ。となると、終日、泊まり込みで監視せざる得ない。いつ執行されるか分からないという緊張状態が4月1日から続くことになった。通常の裁判を略して強制執行できるのは、法的には案件が急を要するからである。しかし、1週間たっても10日たっても相手はこなかった。その間、こちら側はやれることはやっていた。抗議デモも議員に内閣委員会で遠藤五輪相に意見してもらうこともした。ぼくは、当初、現地に泊まる気はなかった。朝早いにしても、自転車で駆けつけることが出来る距離だったし、泊まるとなると場所との関わりの質が変わるところがある。また、今まで住んでいた人の生活を守ることがテーマであって、新たな空間を作ろうとする機運はそれほどなかった。しかし、泊まる人が出てきて長期化するかもしれないという雰囲気になってくると、新しく小屋をつくるチャンスという気分がムラムラと起こってきた。 公衆トイレとその周辺が強制執行の範囲に入っているかどうかは、JSC側の書類によって異なっていた。そこで、その曖昧さが有利に働く場面もあるかもしれないと考えて、はじめは公衆トイレ周りに小屋を作ろうと思った。寄り合いでもそう提案していたのだが、公衆トイレが殺風景で小屋をつくる気を促さないのである。そのうちに3人がトイレで寝だした。たしかに簡単に風雨がしのげるのは間違いない。しかし、トイレは用便するところという固定観念が拭いがたく自分にはあって、そこで寝る気はあんまりしない。野宿でトイレというのはよくある場所なので慣れの問題なのだろうが、すごいなと少し感心してしまった。ついつい、いつもの環境を求めてしまうらしく、やはり土があり木が生えているところに心惹かれた。 まずは、ころがっていた看板を木の枝の上にのっけて物見台を作った。その上からなら、高いフェンスに囲まれた工事現場を一望に出来る。寝返りは打てないが横にもなれる。地上よりわずかに強く吹く風が耳をなでて気持ちいい。まるで木と一体になったようである。さらにツリーハウスへと展開も考えたが、そんな技術はない。明治公園に集っている人には建築現場の経験者も多いので頼めば出来たかもしれないが、そういう人と一緒にやると、あまりにもテキパキと事が進んでしまう。そんな訳で腕に覚えのある人たちの助力をなんとなくかわしながら、どうしたら小屋が作れるのかしばらく構想をねっていた。 幸いなことに、わたしたちが歩き回れるところには、強制封鎖に失敗したまま放置されている資材が転がっていた。また、花見の時期だったので自分の公園にブルーシートがいくらでも落ちていた。小屋づくりの基本はお金をかけないことと現地調達である。そして、最低限の条件は、雨風がしのげて心地よく眠れることである。雨は上から降ってくるから、はじめに屋根をつくらなければならない。物見台からロープを渡して簡単な雨よけを作った。しかし、よりやっかいなのは地面から雨水が滲みてくることである。それを避けるには床を上げるのが一番である。ブロックの上に工事用フェンスに載せて床にすることにした。フェンスの半分は金網になっていて、その上に横になればまるでハンモック。と思ったが、残念ながら体重で金網が延びてしまって体が沈みすぎる。そこで、鉄パイプでできた屏風のようなものを置いたりして沈み込みを少なくした。立ち入り禁止用の黄色と黒のプラスチックの棒がたくさん転がっていたので、それで小屋の骨組みを作った。後は骨組みにシートを張り付けていけばいいのだが、風が強い日が続いて作業できなかった。なかなか完成しなかったが、日が暮れてからの突貫工事で4月13日にどうにか眠ることが出来そうになった。寄り合いの席で小屋の名前を発表した。ドリームハウス。しかし、その夜は激しく雨が降った。壁になったシートはめくれて寒くて何度か起きた。朝、目を覚ましたら天井が顔のすぐそばにあった。シートの上に雨水がたまっている。バケツですくいだした。拠点テントわきの休憩スペースの屋根にも雨がたまっていて、寝ぼけ眼の人たちが水を逃がしていた。 外灯は1月27日から消されていた。ただ、ぼくのテント脇の外灯は太陽光パネルで夜になると光っていた。小屋のシートをめくれば、小屋の中が明るくなるようにした。さらに段ボールで内壁を作ってすきま風をなくした。こうして、見晴らし台つき、照明あり、安眠保証のドリームハウスは完成した。自分の公園のテントよりも物がないだけ小屋内は広々している。ドリームハウスの他にも、小屋が作られていた。車道に比べて路肩が上がっている歩道を床に、工事用鋼板からシートをかけたのを屋根にして上手に雨を避けた小屋やガードレールを利用してはいるけどブルーシートにくるまっているように見える小屋など。 そして、4月16日。工事現場は朝になっても作業員が不在で、見回りに行くと近隣の神宮球場わきに警察車両や警備会社などが集まっていた。ついにやってきたようだ。ぼくが、見回りから戻った時には、出入り口は完全に人垣で封鎖されてしまっていた。中にいた人は力づくで外に押し出された。そして、再三の抗議にもかかわらず、引き渡しが原則の荷物をトラック5台に積み込んで持ち去ってしまった。執行官とその下請け作業員は警官にまして暴力的で、抗議している有志の一人が逮捕された。後日、わたしたちは湾岸にある倉庫(なぜかマグロ丼の店が一階にあった)までバンで荷物を取り返しに行った。ひどく排除に積極的だった強制執行専門業者の社員が、打って変わった丁寧な物腰で現れた。引き渡しするところまでが仕事なのだろうから、今度は私たちがお客様扱いになったわけだ。倉庫内はひんやりと寒く、フォークリフトでコンテナを出し入れしている。わたしたちの荷物はコンテナにして23個という膨大な量だった。ゴミ袋に入った生ゴミから工事資材まであらゆるものが残らず詰め込まれていた。ドリームハウスもパーツごとにまとめられコンテナ1つに形を変えていた。コンテナがドリームハウスになったかのようだった。 #
by isourou1
| 2016-06-05 00:53
| ホームレス文化
テント村のQさんと園道ですれ違う時に噛みつかれた。お互い軽く片手をあげ「元気?」と尋ねたら、「いつも顔を見るたびに元気?って、病気になってないといけないみたいじゃないか」。
いつも下を向きがちに歩いているQさんが顔をあげてこちらの目を見て話している。その語気は冗談とは言い難かった。ぼくは、とっさに「元気ならいいんだよ。今日は、黄砂がひどくて頭痛い人が多かったから。体調悪い人も多いし」とごまかした。Qさんが口の中で何やら言い、そのまま別れた。 たしかにぼくは、Qさんに会う度に挨拶代りに「元気?」とよく尋ねていた。いつも元気がないように見えるからつい、そう言っていた。しかし、Qさんにとってはそれがストレスだったのだ。たぶん、積み重なって次第に気になっていたのだろう。何気ない言葉であっても、繰り返されるとすごく嫌なことはぼくにでもある。(ただ、Qさんもぼくによく「元気?」と聞いている気がするのだが)。 朝9時過ぎに毎日、警備員やサービスセンター職員がテント1つ1つに「おはよー」だの「巡回です」だのと声をかけて回っているのだが、それも安否確認が名目だ。また、管理側が特定の住人に、主に生活保護へ誘導するために体調のことを質問している。そういうことにぼくの挨拶もだぶってうんざりしていたのかもしれない。 頭が痛い人が今日多かったのも、身の回りの人で体調を崩している人が多いのも事実だけど、ぼくの返答はQさんの言葉を受け止めたものではなかった。 そんなこんなで少し気分が落ち込んでいる。自分の浮ついたところ、他人の気持ちへの無理解をQさんに指摘された気がするのだ。 #
by isourou1
| 2016-05-04 23:30
| ホームレス文化
今年になってからどうも体調がすぐれない。テント村(正確には元テント村)の親しい住人が雪の翌日倒れて大手術したり、明治公園では野宿者追い出しの攻防が緊迫していたり、都営霞ヶ丘アパートでも東京都が相次ぐ追い出し文書を送ってきたり、情報公開請求が公園住所を理由に拒否されて意義申し立てしたりと、自分が関わっている状況が様々深刻な様相になっており、それらのストレスが重なっているのだろう。てきめん胃腸にきて、絶食の数日を過ごしようやく回復の兆しが見えてきた。そして、久しぶりに何の予定もない一日だった。
夕方になり、今年のスケジュール帳を買いに行こうと思った。テントを出ると、隣のテントのアサカさんが園道を竹ぼうきで掃いていた。別に話しかけなくても良いのだが、急ぎの用事がないので何か言いたくなる。「寒いですね」この季節の8割はこの言葉からだ。アサカさんが手を止めて近寄りながら「明日はもっと寒いってよ」「雪ですか」「うーん、雪か雨、イヤになっちゃうよ。お出かけ?」「寒いから走ろうと思って」とぼくはランニングシューズを履いて準備万端。「変わった人だね。もっとも、俺も寒いから掃除しているんだけど」。思わず笑う。「そういえば、風邪治ったんですか?」数日前に風邪薬がほしいとアサカさんがやってきたことを思い出した。「うーん、薬は飲んでいるよ。テントのチャック壊れているから寝ていたら風が入ってきてさ」「それは寒いですよ」「何か被って寝ている?」「頭から布団を被ってますけど」「それじゃ足が出ちゃうでしょ」「たしかに。でも服とかでカバーしてますよ」「マスクがおすすめだね」とアサカさんは得意げ。「一晩マスクしていたら耳がゴムで痛くなりませんか?」「新品はだめだよ。2・3日使ったゆるゆるの奴じゃないと。ゴムの跡が顔に付いちゃうし」「なるほど」使い捨てにしていたぼくとしてはゴムのゆるさという観点は新鮮だ。「マスクはゆるくなくちゃ。ゆるゆるマスクで風邪が治ったよ」とアサカさん。「さすが先達の言葉は含蓄がありますね」とぼく。アサカさんは再び掃除を始めた。 結局、町を2、3時間ぶらついてからテント村へ戻ろうとしていた。公園に向かう広い並木道をうつむき加減で歩いていく白いダウンジャケットの男の後ろ姿に見覚えがあった。ぼくの隣の隣に住んでいたタカイさんだ。「お元気ですか?」。タカイさんは顔をあげて、「ああ、もうノジレン(支援団体)の炊き出しやってないのな。M公園の階段下に行ってみたら誰もいなくて。もうやってないんだ」。タカイさんの言葉を最後まで聞いてから、「やってますよ。ただ場所が変わったんです」と教えた。「ああそうなの。そこも閉められると聞いてたから」。この区では、野宿者の住む公園や炊き出しをする場所を次々に閉めてきた。ただ区長が代わり、一部の公園だけは年末年始や夜も開くようになった。「俺、ヤクザに連れられてずっと横浜の寮に入っていたでしょ。今日出てきちゃったんだ。同じ部屋のやつがあんまりいじめるもんだから、我慢に我慢を重ねていたんだけど、とうとう、もういい加減にしろって大声出しちゃって」どうりで炊き出しの状況が分かっていないはずだ。「番頭さんとかはいい人なんだ。俺あんまり風呂入らないからさ、心配して、タカイさん遠慮することないよ一番先に入ればいいよ、なんてさ」。「給料は出たの?」と聞くと「月3万だけ、でも飯は出るからさ」。「仕事はするんでしょ?」と聞くと「もう俺は年だから働かなくていいって言うんだよ」。飯場かと思っていたら生活保護の宿泊所の話だった。「貧困ビジネスだからさ、ヤクザが金をみんな抜いちゃうんだろ」とタカイさん。月に3万を渡すのはまだましな方かもしれない。「仕切っているのが嫌な奴というのはよくあるパターンだよね。でも、まだ生保切れてないだろうから、ケースワーカーに相談してみれば」と言う。「本当はそれがいいんだろうけど。紙出されると俺、文字が読めないからってサインしちゃうんだよ」。何にサインしたんだろう?。「俺、一年前も出てきただろ」。そういえば、タカイさんがこの区で生保を取った時はぼくが役所に同行して、その場で宿泊所(正確にはドヤのようなホテル)の個室に入ったのだった。そして、しばらくしたら出てきてしまった。本人は掃除の人と口げんかしたと言っていたが、どうやら本当の理由は別にあるらしいことが後で分かった。今回もそういうこともあるのかもしれないとぼんやりと感じた。「タカイさん、今から行けばまだ炊き出し間に合うよ」と水を向けた。「ありがとう。行ってきますよ。また何かあったら相談させてください」 公園に近づくと寒さが増す。町は光に包まれ、公園は薄暗いせいもあるかもしれない。陸橋の下の歩道にしゃがみこんで、黒いダウンジャケットでアイフォンをいじっている人がいた。顔ははっきり分からないが、野宿しながらアイフォンをしている人といえばだいたい決まっている。下山さんは少し耳が聞こえにくい上にイヤフォンをしているから大声で呼びかけた。「最近どうしていたんですか?」下山さんはイヤフォンをはずして「年末から仕事したり、遊びに行ったりしていたから、あんまりいなかった」「寒さは大丈夫ですか」「大丈夫。0度くらいまでだったら何でもないから」「いい寝袋を持っているんですか」「良くはないけど2枚重ねているから寒くないよ」ぼくより年が一回りくらい上の下山さんはベンチで寝ている。自作パソコンなども作っていたこともあり、IT関係にはめちゃくちゃ詳しい。野宿しながらも、モバイルパソコンやスマホ、ソーラー充電器などたくさんの機材を所有している。なので、下山さんにはそういう方面を主に聞くことにしている。「最近、タブレットを手に入れたんですけど、パソコンとちがって使いにくくて」とぼく。「基本的に見るだけだからね。編集とかそういうのは不向きだよ。もうちょっと早かったらなぁ。月500メガまで無料のシムカードがあったんだけど」「それはすごいですね」「でも、クレジットカードが必要なんだよ。今使っているアイフォンにしても無料アプリなのにクレジットが必要だったりしてさ。ふざけているよ。まぁ俺の場合は、そういうの関係なくなっているんだけどね」と下山さんの目が光る。近場のマクドナルドが先月閉店して、電源やネットをする場所に困っているという話題で盛り上がる。そのマックはぼくにとって、オフィスみたいなものだったからたしかに困っているのである。「ところで、猫が行方不明の貼り紙たくさんしていたけど、見つかったの?」と下山さん。下山さんは猫好きでもある。「ああ、見つかりました。ただ飼えないから、Yさんに頼んで里親を探してもらうことになりました。貼り紙したら電話がいろいろかかってきて、猫のことになるとみんな好意的でしたね」「ああそう。キャットフードの方がドックフードより売れているそうだからね。あの動画見た?世界猫あるき、というテレビ番組があるんだけど、それを猫たちが見ているんだよ。群がって。すごいのなんか、画面に背伸びして乗りかかって」と下山さんがうれしそうに笑った。だいぶ風も吹いてきた。 #
by isourou1
| 2016-02-07 12:28
| ホームレス文化
久しぶりにやってくる人がいる。失礼ながら久しぶりすぎて誰だか分からない人もいる。毎週火曜午後にやっている絵をかく会に(明治公園野宿者とJSCの交渉があったために)ぼくは夕方ころ戻った。この時期にしては暖かく日差しもある。6人ほどで雑談していると、ぼくの名前を呼びながら二人の男が転げるようにやってきた。テント前には園道から5・6段の階段を下ってくることになるから、ちょうど漫才コンビが舞台に勢いよく登場したような調子だった。男が「お世話になりました。挨拶にもこないで」と言うのだが見覚えがない。手配師かと思った。手配師というのは肉体労働する飯場などに労働者を斡旋する人で、きちんとした契約があるような現場じゃないから未払いや労働力としてプールされるだけだったり多くの人がひどい目にあっている。「仕事あるよ」なんて言いながら炊き出しなどでウロウロしているのはチンピラぽい風体の人が多い。男は「テント村はもうなくなったと聞いていたんですよ。去年のデング熱騒動があったでしょ。まだ住んでいて良かった」と喜んでいた。もう一方の人は、支援団体で炊き出しの手伝いをしていたこともあったらしく「最近ぜんぜんこないじゃないか」などと言われていた。 「20キロも太っちゃって、髪も切ったから分からないかもしれないですけど、昔すごく優しくしてもらって。お茶をごちそうになったり、アンケートのバイトを紹介してもらったり」アンケートのバイトというのは商品についての市場調査で1時間くらいで数千円もらえる。Iさんにも「髪の毛をきってもらいました」。Iさんも「たくさんの人の髪きっているからぁ」と思い出せないらしい。「本当にお世話になって。お礼もせずにすいませんでした。角さんに連れてきてもらったんですよ。」角さんは出稼ぎのマグロ漁船で大金をもらったもののギャンブルなどで使い果たしてしまって、家族の元に戻れなくなった人だった。言っている内容から彼がここに来ていたのは間違いない。声と話し方もなんとなく覚えている。彼は様々な施設をたらい回しになって、飯田橋にある個室にたどりついて数年になるらしい。相方とは同じフロアということだ。生活保護受給者だけではなく外国人や一般の人もいるらしいのでゲストハウスの類だろう。ただし、保護受給者はほかのフロアに行ってはいけないと言われているらしい。貧困ビジネスとして知られる宿泊所などは、食費や何やらを天引きされて手取りが1万円程度のところがある。その点、彼らは居宅と同じだからきちんと月8万くらいの生活費はもらうことができる。「天国みたいなものじゃん」「イケイケどんどんじゃん」とからかい半分の声が出る。だからといって、そう言っている人が生活保護を取りたいわけではない。そこらへんは微妙なところだ。「毎食自分で食べるのは大変ですよ。」と相方。「自分の食事を自分で作るのは当たり前だと思うけど、、、」と彼が小声でツッコミを入れる。「すぐにお金がなくなって」と相方。数人が笑う。お金がなくなる本当の理由を知っているのだろう。同じところの元タクシー運転手が生活保護を受けている彼らを怒るらしい。「どうもすいません、って言いましたけど」と相方。そういう人っているよね、とみなは同情。「地雷を踏むとそうなるんですけど」と彼。「お前なんて一日おきにご飯つくってもらっているじゃん」と相方。みな驚きつつ笑う。 だんだんと日が暮れてきた。急いで絵の合評会(といっても3人だけしか描いてない)をした。その後、ちょっとトイレに行ってきますといなくなった彼がなかなか帰ってこない。真っ暗になったので、イスやテーブルを片づけ三々五々に解散した。相方とぼくともう一人で彼の帰りを待つ。「お酒の話が出るとすぐに買って飲みたくなるんだよ」と相方。彼の自転車が目の前の園道を通り過ぎた。暗くて分からなかったらしい。相方が追いかけていった。戻ってきた彼は両手にスーパーの袋を持っていた。「お待たせしてすんません」「やっぱり買い物行ったと思ったんだよ。そんな気を使わなくていいよ」「お世話になって、お礼もできないままでしたから」スーパーの袋からネギが飛び出している。「やけに生活臭のするプレゼントありがとう」というと二人は笑った。彼らは仲の良い中学生みたいに自転車で連れだって帰っていった。袋の中には、納豆・豆腐・ネギ・卵・醤油・味付けのり・お菓子。納豆と豆腐が好物というぼくの話を彼は覚えていたのだという。最近働いてないので実際のところとても有り難い。 #
by isourou1
| 2015-12-17 22:21
| ホームレス文化
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