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ぼくは、ここのブログで、今あるホームレス生活の豊かさや可能性をかいているが、今まで、そのような言葉が公の場で語られるのを聞いたことがない。何かの本で、吉本隆明が上野のホームレスの暮らしぶりを良い印象で述べているのを読んだことがある、くらいだ。「こじきは3日やったらやめられない」というのは微妙なところだが、人間のだらしなさへの揶揄として使われることが多い。(ただ、誰もいないというのは、ぼくが知らなかったり、または、言おうとしている人は知っているので、言いすぎです)。ホームレスを巡っては、1、当事者2、支援団体3、行政4、一般市民5、マスコミが、語っている。ぼくが、思うに、これらの人たちは、ホームレス生活の豊かさを語ると困ってしまうから、語らないのである。それは、あまり求められていない話なのである。
1、当事者 一般の生活が出来なくなり仕方ないという理由で、公共地を占拠するのを大目に見られているという負い目があるために、ホームレス生活の悲惨な面しか語ろうとしない。ボランティアや、善意で関わる人に見せる顔(ホームレスの顔)というのもあるのだ。いかにもホームレスだ、と見えるその人が、一方で、どんなに愉快な生活を仲間たちと持っていることか。例えば、ぼくが住んでいる公園には(もう取り壊されたから書いてもいいだろう)雀荘があった。麻雀をするためだけに、一軒のきれいな小屋を建てたのである。ぼくらが、やっているカフェもある。あちこちに人の集まる場があり、ギターで歌うおじさんや、朝から焚き火を欠かさず料理を作っている人達もいる。上手に焚き火しながらアクセサリーを作る若者や、ヒーリングと称して一日中踊っているおじさん、インドに30回以上行って瞑想する人、公園の木を引っこ抜いて巨大なティピ状の小屋(根が生えている)をつくる奴もいた。10年以上住んでいて大きな声で笑うよく見るとビョークに似たでももっと天使みたいな女の人も、6年住んでいる全身刺青の愉快なブラジル人、南米の各国の人、木の上に小屋を作ったという人もいた。猫、犬、カラス、ウサギと動物を飼っている人もけっこういる。ぼくが知っているのはここ3年にすぎない、30年住んでいるクラスの人も数人いて、彼らは昔の話を輝きをもって話す。こうやって書いていくと尽きない。ともかく、そんな人たちが、しっちゃかめちゃか(近くにいた村長っぽい人の好きな言葉)で、楽しく暮らしていた。でも、これらのことは、外の人には分からないし、だれも語りもしないだろう。そんなこと語ったところで、いらない批判を受けて得にならないし、また、ホームレスは悲惨でなければならないという抑圧があるのである。 2、支援団体 多くの支援団体は、労働運動を基本としている。(あとは、キリスト教が主体になった団体もあると思う)。ドヤや寄せ場などの日雇い労働層のその下として、ホームレス層を考えるということになる。それは、資本主義の犠牲のもっとも過酷なあらわれであり、それを権力に突きつけるということが運動の本質となる。そのような捉え方からは、そこで行われている文化的な豊かさへの目配りは不十分になりがちである。ホームレスは、政治運動をするためにここにいるわけではなく、ここで生活をするためにここにいる。そのような落差は、支援団体のビラによく見られる「仕事や住む所があれば、だれも公園に住みしない」というような文に現れる。それは、たしかにそうであるかもしれない。しかし、それだけ言ってここの生活の豊かさに言及しないなら、ここで繰り広げられている生活を否定することになる。運動の駒として捉え、人々の内実に無関心な態度が、チラリと見えてしまうのである。しかし、ここの生活の豊かさを捉え損なっているから、運動に参加する当事者は、わずかだし、それは力になりにくい。それを力にならないから、参加しないのだ、と思っているのだったら、さらに誤解は深いと思う。たしかに、ホームレス生活の豊かさを力説してみても、運動には、いままでなりにくかっただろう。しかし、それでは、今回のようなアパート移行事業が始まってみると、枝葉にたいしてはともかく、その根本的な批判は難しい。不十分でも、行政が仕事や住む所を作ろうとしているのだから。厳しいことを書いたかもしれないが、そのような中でぼくの住む公園の支援団体は、今、方向転換しようと模索している様ではある。また、今年の夏におじゃました大阪の長井公園では、一緒に住みながら豊かな側面にも着目している様でした。 3.行政 ホームレス自立支援法をみれば分かるとおり、行政がいう自立とは、持ち家やアパートでの生活でありそのために賃労働をすることである。法律の中で、自立の定義をしていないが、それはあまりに当たり前すぎて書く必要がないと思ったためだろう。つまり、ホームレス生活は行政から見れば議論の余地もなく自立していないということになる。しかし、自分の住む家さえ自分で作ってしまう人たちをさして、自立していない、なんて言えるだろうか。むしろ、独立心が強すぎて、行政や他人の世話になるのを潔しとしない人が、それゆえにホームレスになる場合も多いと思う。そもそも自立という言葉は、その内容を検証することなく使えば、今の社会に是認された生き方を強制する働きをするばかりで、その他の生き方や考えをつぶしてしまう。大阪の青空カラオケを壊した行政は、それが文化を壊したのだとはおもわないだろう。ブルーテント村を無くしても、それがそこにあったコミュニティを壊したのだなんて、夢にも思わないに違いない。 4、一般市民 ホームレスに同情的な方から、批判的な方、意見に幅があるが、先入観を捨ててその生活に触れる方は少ないと思う。ホームレスは悲惨であるという前提は同じではないだろうか。自分の生活について根本的に考え直すのは面倒くさいし、怖いことだ。他を見て、自分の現在に安心したいという気持ちはだれにもある。なぜ、高い家賃を払わないといけないのか、そもそも土地に値段がついているのはなぜなのか、なぜこんなに働かないといけないのか、生活が楽しくないのはどうしてか。むしろ考え直すべきは一般的な生活の方ではないのか。ホームレス生活が豊かだとすると、そんな難問たちがやってきてしまうのである。 5、マスコミ ホームレスのイメージを作っているのは、マスコミの力が大きい。特に、目に触れることのない地方だとなおさらだろう。最近、特に、大きなトピックの一つだろう。しかし、残念ながらそこでのホームレス像というのも、画一的だ。(といっても、あんまりテレビ見ないのですが。でも、知っている範囲でいえば)ホームレスは怠け者だという偏見は、マスコミによりかなり是正されたことだと思うが、しかし、それこそまた、画一的な像なのだ。出てくる人は働く意欲はあれど、なかなか仕事が見つからず、早くホームレスから足を洗いたいけど果たせない・・・または、アパートが見つかり低い賃金だけど仕事も見つかり「自立」へ向けて明るい一歩を踏み出した(けど前途多難)・・・なんてところじゃないだろうか。そういう人がいないというわけではない。でも、そういう人の生活がそれだけで終始しているわけない。前に、割と親しくしているおじさん(70歳代)がテレビの取材を受けたことがあった。やはり、肩を落として、仕事のことを語ったり、アパートを見て、こんなところに住みたいねぇ、なんて言ったり。かわいそうなホームレスという感じだ。しかし、その同じ人が、公園のトランスのパーティで6,7時間もがんがんに踊り続け若者に歓迎され、六本木のクラブへ朝まで行ったり、達者な絵をぼくらたちと描いたりする人だ、なんて一言も出てこない。違う人は、いつもギターを弾きながら歌っているおじさんだが、その取材でも、そんな姿は映しはしない。なぜか、と聞くと、イメージと違うから、との答え。一人でぼそぼそ食事しているところを撮る。マスコミもまた、あらかじめある図式に映像を流し込む。(時間もないしね。)。そこには、ホームレス生活の豊かさなんて出てこない仕組みなっているのだ。 こうして、だれも語らないから、ホームレス生活の豊かさなんてないものになっている。そんなことを語ってもだれの利益にもならなかったからだ。でも、うそ。明らかにうそじゃん。もう言ってもいいと思う。ホームレスには、(石原の想像できない)優れた文化があり、それは胸をはって誇れることだ。 ここで書いたことは、だいたいの話しであり(図式的であるということ)、それぞれ例外的な人がいることをぼくも知っている。そういう人には腹立たしいこともあったかもしれない。その人たちにこそ未来はある。
by isourou1
| 2005-12-02 20:49
| ホームレス文化
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