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日曜に自分のテント前で「エノアール」という物物交換のカフェをテント村住人Iさんと一緒にやっている。色んなお茶があるのだが、食べ物は基本的に出していない。 しかし、今回のコロナをきっかけにして4月26日から(当面の間)食事を作ることにした。それにあたって、食料カンパをカフェにくる人たちに求めた(送っていただいた方には感謝)。 炊き出しがコロナで半減してしまったために始めたことではある。といっても、10名前後がくるだけなので、通常の炊き出しとは規模が一桁、小さい。 緊急事態宣言が解除されて6月から炊き出しもボチボチ再開しだした。 先日も、台湾の仏教団体が再開したのだが、告知をしていなかったので、用意した弁当が余りそうだ、と相談にきた。そこで、テント村住人の3人が弁当など(他にもバナナやマスクやジュース)を台車で、炊き出しをしている場所まで取りに行った。人間関係がみんなと出来ている人はあなたしかいないから配るのはお願い、とKさんが言うので、来客もあったし、ぼくはテントで待っていた。でも、結局、自分を入れて4人でテント村に配布することになった。園道を台車で行ったり来たりしつつ、そこからは弁当を手で持って、網の目のような枝道を通って各テントへ届ける。始終顔を合わせる近所の人ながら作業を一緒にするのは新鮮だった。そういえば、4月にインドの団体が再開した時も共に行動したことがなかった人とカレーをテント村に配布したのだった。 ぼくも(当然ながら)みんなと仲良く出来ているわけではなく、口もきかない人もいる。でも、他の人からは弁当を受け取ることが分かったりして、思わぬ付き合いがあるのがなかなか面白い。 そして、このような時、日頃良かれと思っていない人に対しても、なるべくならば弁当を配るべきだという了解がある。また、配布作業を担ったからといって、他人より多く取ろうというのは基本的にない。みんなと同じだけが普通である。 昨日もそのことに感じ入った。 このような態度は一体どこからくるのだろうか? 倫理というと口幅ったいが、当たり前のことになっているのはなぜなのか? 1つには、炊き出しという場の作用があるのではないかと思う。炊き出しでは、基本的に誰もが同じ分量をもらう。必要であれば、また残余があれば、2回目を並ぶが、それは誰にも可能な明示的な行為である。 また、手渡しするだけの炊き出しであっても、野宿者や(元)野宿者が積極的に手伝いをしている。コロナが始まってからは、列に並んでいる人の手にアルコールスプレーを野宿者がかけているところもあった。 つまり、食料の分配について自らが(出来ることを)担うのは特別な事ではない。 その上で、ズルを嫌う村社会的なノリや、持たつ持たれつ、という野宿者どうしの関係や、コロナによって食べ物が切実になっている、という背景も関係しているだろう。 野宿者が参加する会議で盛り上がるのは食べ物を何にするかという議題である。行動内容についての議論では、どうしても特定の人だけが発言することになってしまう。しかし、食べ物のことはみんな分かる。関心がある。具体的な作業もいろいろあって、それを担うこともできる。そして、そういう中で、なにほどかの倫理が立ち上がってくる。 私自身は、炊き出しにあまり参加せずにいたのであるが、コロナ以降、食に潜んでいる可能性について感じることが多い。
by isourou1
| 2020-06-08 00:32
| ホームレス文化
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